6月24日、ボリショイ・オペラの来日公演、チャイコフスキー
「エフゲニー・オネーギン」 (東京文化会館)を観てきた。
ボリショイ・オペラというと、豪華で伝統的な舞台を想像していたが、舞台装置はきわめてシンプルでモダンだった。「スペードの女王」では2階レベルで舞台を横断する
ブリッジが、「エフゲニー・オネーギンでは巨大な楕円の
テーブルが、それぞれ舞台の中心に据えられ、重要な役割を果たしていた。それに照明がすばらしく効果的だった。舞台横からの太陽光を思わせる光源はLEDだろうか。
チェルニャコフの演出は、時代を現代におきかえていたが、時代を変えたことで損なわれるものはあまり感じなかった。この物語に描かれたような男と女のすれ違いは、誰でも似たような経験をしているので、時代や国を超えて、人々の心をとらえるのだろう。
プレトークで、チェルニャコフは「大勢いる中の少し離れたところにタチアーナがいることで、タチアーナの孤独感を表したかった」と言っていた。後半では、オネーギンがなかなかテーブルにつけないことで、やはりオネーギンの疎外感を表したのだろう。このようにテーブルは社会のシンボルなのだ。このあたりの演出はとても良かったと思う。
前半(第1幕・第2幕通しで約2時間)と後半(第3幕:1時間弱)の間のタチアーナの変化(孤立→社交的、地味→優雅)はすごい。グレーミン公爵との結婚、田舎から都会へといった環境の変化だけで、あんなに変身できるものなのか。もしかしたらオネーギンに振られたことがタチアーナの精神的成長のきっかけになったのだろうか。
このオペラの正統な見方はタチアーナに同情し、「オネーギン、ざまーみろ」で終わるのだろうが、私はあえてオネーギンにシンパシーをもって鑑賞してみた。すると、終幕近く、タチアーナの「私と醜聞をおこして、あなた有名になるつもりなの?」という台詞など、結構きつく感じた。そこまでいうか。タチアーナの成長は、ある意味で社会のいやらしさに染まった結果であるのかもしれない。
「スペードの女王」よりも「エフゲニー・オネーギン」の方が歌がなじみやすいせいか、音楽監督の
ヴェデルニコフ指揮によるオケは歌をより良く聴かせることに徹していたように思う。
それにしてもロシアの劇場の合唱団は馬鹿騒ぎを演じるのがうまい。盛り上がりや驚きのピークでの、歌による人々の叫び声は強烈だった。あんなでかい声の人たちと居酒屋で同席したらたまったものではない。
【スタッフ】
演出 : ドミトリー・チェルニャコフ
指揮 : アレクサンドル・ヴェデルニコフ
【キャスト】
タチアーナ : タチアーナ・モノガローワ
エフゲニー・オネーギン : ウラジスラフ・スリムスキー
レンスキー : アンドレイ・ドゥナーエフ
グレーミン公爵 : ミハイル・カザコフ
【参考】