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2020.03.24 Tuesday
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「カラマーゾフの兄弟」マリインスキー モスクワ公演
ヅサン・ボジャノヴィック
マリインスキーの昨シーズンの初演の中からいくつかの作品を冬のモスクワで上演することは既に伝統となりつつある。今年は、既にシェドリンの「魅了された放浪者」(私はチケットを持っていたが、残念ながら行くことができなかった)が上演され、昨夜はスメルコフの「カラマーゾフの兄弟」が上演された。私は「ロゲル王」、「さまよえるオランダ人」のどちらかあるいは両方を観たいと思っていたが、2つの新作オペラがモスクワに来ることがとてもうれしかった。
まず、20世紀と現代のオペラをロシアの聴衆に紹介しようというゲルギエフの勇敢さをたたえなければならない。そうした輝かしい動きの中で、「カラマーゾフの兄弟」のような完全な新作オペラを制作されることを人はただ支持できるだけだ。このオペラはここ数十年で初のマリインスキー制作の新作オペラであり、ボリショイでさえ「ローゼンタールの子供たち」を数年前に上演しただけであると知って驚いた。
そうは言っても、この公演は本当に良くなかったと認めざるをえない。最初の一節からひどいスコアだとわかった。すべてのオペラの常套句や19世紀の音楽を混ぜたまったく支離滅裂なしろもので、19世紀のオペラとはまったく違い、いい旋律が一つとしてないのである。同様の非難は台本についてもいえる。まるで高校生が小説を3時間の舞台に要約したようなひどい試みで、ドストエフスキーの名作に何の洞察も入れていないものだった。概してこのオペラは私が今まで聴いた中で最も面白くない作品の一つである。
もう一つの欠点は明らかに古典的な演出である。25歳の演出家(ワルハートフ)の仕事とは思えず、むしろ年金生活者の仕事のように思えた。舞台ははえたが、3つの場面が変化したあとはちょっと退屈だった。
反対に、歌と演技は圧倒的に素晴らしかった。キャストはどんな劇場もうらやむほど高いレベルであった。でも、どんなに素晴らしいオーケストラとコーラス、そしてゲルギエフの情熱的な指揮が揃っても、この平凡なオペラをもっとましなものにことはできなかった。
まだ観ていないのなら、観ないままでいることをおすすめする。
カラマーゾフの兄弟
バービカン ロンドン
ジョージ・ホール
『ガーディアン』2009年2月4日(水)
ここ30年で初めてマリインスキー劇場からオペラの委嘱を受けた作曲家、58歳のアレクサンドル・スメルコフは、求めに応じてドストエフスキーの巨大な小説を舞台にし、オペラは昨年7月サンクトペテルブルクで初演された。音楽監督でこのオペラの精神的な後見人であるワレリー・ゲルギエフの下で、カンパニーはバービカンの週末の最終夜に、演奏会形式で、このオペラの英国初演を行った。
マリインスキーの文化の保守性については言うべきことがたくさんある。新作の委嘱までにあまりに時間を空いたので、これほど古風な曲でさえ満足したと思えるのかもしれない。このオペラの大部分は、130年前のチャイコフスキーの出来の悪い生徒の一人でも書けたはずだ。ムソルグスキー、ショスタコヴィッチ、プロコフィエフといった他の作曲家から羞恥心もなく引用している。その結果は新鮮さの欠如である。長く続いた既存の名作を聴衆に思い起こさせるようなロシアのオペラの伝統のハイライトのレビューに比べても、このオペラは新鮮みが欠けている。これはトリビュート・バンドの晩と同じようなものだ。
スメルコフの才能を全く切り捨ててしまうのは正しくないかもしれない。作曲と編曲の技術的な手腕は十分に優れている。イワン役のアレクセイ・マルコフと悪魔役のアンドレイ・ポポフの二重唱と裁判のシーンでの大きなアンサンブルには個性と勢いがあった。でも、強い思考が欠けていることは、先人の才能に及ぶことができないまま先人の方法をまねるスメルコフではうまく取り繕うことができなかった。
それにもかかわらず、カンパニーはこのオペラに対して最善の取り組みを行った。実際、すべての役は素晴らしく歌われ、オーケストラとゲルギエフは惜しみなく献身した。この作品が第一作であり、スメルコフが計画するドストエフスキー三部作の見通しはあまりに暗く、考えることさえできない。
マリインスキー劇場/ゲルギエフ(3)
−アレクサンドル・スメルコフ「カラマーゾフの兄弟」
評者:リチャード・ニコルソン
指揮のワレリー・ゲルギエフ(写真はclassicalsource)
マリインスキーの公演は、バービカン・センターの運営にとってまたもや大きな成功となった。いずれもマリインスキー劇場で初演された3つのオペラをロンドンの聴衆は聴くことができたが、オペラの分野でこれほど国際協力がうまくいったことはない。演目の一つ「デーモン」はウェクスフォードで上演されたことがあるとはいえ英国では商業的な公演はまずありえず、もう一つの演目は昨年7月に初演されたばかりである。
あとで述べたのはアレクサンドル・スメルコフの「カラマーゾフの兄弟」のことである。聴けば驚くが、その表現法はあまりに伝統的かつ非進歩的である。雪の晩にほぼ満員の聴衆で上演されたオペラは、サンクトペテルブルクの初演時と同じくらいに歓迎を受けた。この作品はとっつきやすく、いきいきと対象を描くために声と楽器を駆使する方法、つまりオペラの絶頂期に真価を発揮した技術であるが、これを上手に活用したので、私はほっとした。
声の配分は19世紀後半のオペラかと思わせるものだった。重要なパートには、英雄役に適したテノール(ミーチャ)、劇的な場面に適したバリトン(イワン)、太く強靱なソプラノ(カテリーナ・イヴァノヴナ)、表情豊かなメゾソプラノ(グルーシェニカ)、さらには軽い声のソプラノ(ホフラコーワ)までいる。珍しいキャスティングとしては、重要な役のフョードル・パーヴロヴィチにテノールの性格歌手をおき、2人の補助テノール(スメルジャコフと悪魔)を入れていることである。 ワシリー・ゴルシコフはフョードルの自堕落ぶりを声という手段だけで伝えた。幕開けの修道院の外のシーンでは、チャカチャカした伴奏でコミック・オペラの楽曲に似た感じで道化話をした。
ミーチャ役のアヴグスト・アモノフ(写真はclassicalsource)
まもなくフョードルと長男ミーチャの間の憎悪が決定的となる。だが、ミーチャの性格は快楽主義者の一面だけではない。弟アリョーシャと話すうちに、ミーチャは婚約者カテリーナ・イヴァノヴナへの裏切りや自分の強欲さについての罪悪感に苦しむと同時に、父親との競争に激しく燃える。その後のアリアで、ミーチャ役のアヴグスト・アモノフは、憤慨というよりは当惑して、ピアニッシモのハイ・ツェーで見事なパフォーマンスを演じた。続く場面では、ミーチャは性的な嫉妬から父親を殴ったように、暴力的な躁の状態に戻った。その後、ミーチャは抑えた柔らかい声で祈りの歌を披露し、裁判の前に思いがけない同情を得ることになった。エレーナ・ネベラとの愛のデュエットでは、二人は抑制をはらって、最大の声で最高音域を歌って見せた。
エレーナ・ネベラはこのデュエットで最高のものを見せたが、やや暗いソプラノは適役ではなかった。グルーシェニカ役のクリスティーナ・カプスチンスカヤとネベラでは声が違い、合わなかった。だが、二人はいきいきとしない人物を演じることには満足せずに、二人の女性主役にそれぞれ背反する二つの性格を与えた。すなわち、グルーシェニカは、ある時は抜け目なくカテリーナを好きなふりをして巧みに操ろうとし、ある時はミーチャへの情熱に屈する。カテリーナもぎりぎりまで自己犠牲を貫きながら、最後はミーチャを糾弾してしまう。
グルーシェニカカテリーナ役のエレーナ・ネベラ(写真はclassicalsource)
アレクセイ・マルコフは、マズルカ、レイフェルクス、ホルストフスキーでバリトンとしての評判を高めた。マルコフが演ずるイワンは、一つの性格描写として焦点が定まるまで少し時間がかかったが、アリョーシャとスメルジャコフと共にでた第2幕までには意地悪な力を全開した。ウラディスラフ・スリムスキーは、かなり軽いバリトンでアリョーシャを演じ、終始この役の悲痛を強調した。
高水準の性格テノールの二つの役は、「四番目の息子」スメルジャコフと悪魔である。スメルジャコフ役のアレクサンドル・チムチェンコは多重の人格を表現した。初めて登場する場面では欺瞞的に媚びへつらっていたが、第二場ではイワンに攻撃されやすい人物となり、ついには束縛から解放されて悪魔に身をゆだねることとなる。最後にスメルジャコフがイワンと対峙する場面はこの作品で最も創造性が高いところである。スメルコフは、変わり果てたイワンに不愉快な作用を与える。アンドレイ・ポポフのスリムな体型と痛烈な高いテノールはイワンの役にぴったりだった。マンドリンを模した音とトランペット・ソロの名人芸が続くが、それらの音はイワンを苦しめ、心の中の世界を音楽で表していた。この場面も迫力があり、後の裁判の場面よりも優れているだろう。
演奏会形式では、混乱が起こる可能性のある場面展開を省略した。小気味よいつながりで互いに異なる場面が続いていくので、二つの幕はそれぞれかなり長くても勢いを失うことがなかった。しかし、舞台背景や衣装、小道具などがなく、出演者が互いに身体を近づけることもないことにから、登場人物間の人間関係の様相が分かりにくかった。雰囲気づくりにはもっと照明の効果を高めた方がよかったかもしれない。スメルコフが場面転換を上手に使ったことは、いくつかの例をあげることができる。例えば、大審問官の登場から次のミーチャの祈りへと続くところである。
このオペラ・カンパニーの強さは、端役のホフラコーワをやったオルガ・トリフォノヴァの滑らかな音階ときらりと光るスタッカートでわかる。大審問官役のアレクサンドル・モロゾフは雷のような大声を出したが、敵対する放浪者は失敗だった。オペラのあらすじによれば、大審問官は監獄の場面で二度(第16場と第25場)放浪者に対峙し、後者では放浪者が多くのしぐさを舞台で示すことになっている。この公演では二つとも見られず、大審問官は自分自身に語るしかなかった。おそらく放浪者は無言の役であり、幽霊のように姿形がなく、劇場では映像として見られるのだろう。
ホフラコーワ役のオルガ・トリフォノヴァ(写真はclassicalsource)
マリインスキーの一座は驚くほど素晴らしい仕事をしてくれた。重みのある音を出す金管楽器、叙情的な音楽で完璧なアンサンブルを聴かせる弦楽器、求められる重要で劇的な役割に対し常にぴたっと反応する弦楽器、そして素晴らしい声に恵まれた合唱団である。エルサム・カレッジの少年たちは優美な歌声を求められ、信頼がおける貢献をした。ワレリー・ゲルギエフは、リハーサルでは大変だったに違いないが、激務だったことはおくびにも出さず、うれしいことにどぎつくはなく、総じて確実に指揮した。
スメルコフはまさに劇場の人である。スメルコフの劇作法はプッチーニと瓜二つなほど巧みだった。グルーシェニカとミーチャが将来を誓ったまさにその瞬間に突然警察が訪ねてきたように、惹くところがとても強力である。音楽のスタイルについていえば、アリョーシャの「祈り」で金管楽器のメロディに顕著にあらわれたようにライトモチーフが使われる。個々の楽器の効果は登場人物に合わせられる。皮肉なバスーンの音色は貪欲なフョードルの独白に付随したものだろう。まちがいなく最も音楽として印象に残る曲は、良心を喚起するためにアリョーシャの夢の中に師が現れたときに流れる低音のハープを伴う八重唱である。
作品には欠点もある。声楽曲の多くは月並みであり、印象的な名曲と比べると、主な独唱曲も愛の二重唱も平凡と思える。小説をオペラの台本に縮めたことにより、少年コーリャとイリューシャを含む重要なエピソードがいくつか省略された。オペラではイデオロギーの要素は大幅に縮小している。
このオペラは、劇としても音楽としても模倣品である。チャイコフスキーの影響は、ダンスの扱いやギャンブルのシーンで明らかだが、音楽の進行でも影響を受けており、第10場のグルーシェニカのアリアでのピチカートの弦による叙情的なメロディなど「エフゲニー・オネーギン」を思い起こさせる。ムソルグスキーの例は第1幕最後の大きく盛り上がる場面に現れるが、プロコフィエフとショスタコヴィッチとも似ている。冒頭部分は、ブラームスのハ長調交響曲の最初の数小説で音が上昇するところの真似だと私には聞こえた。ベートーヴェンの第九交響曲からの引用は別としても、そのように過去の音楽の遺産を特定できるものは実はわずかである。しかし、そうした外観によってこのオペラは非難の対象となった。
このオペラは既に見下されるような評価を得た。このオペラは、実はロシアの伝統的な大衆オペラを再生するものと理解するのが妥当であり、サンクトペテルブルクで初演された三つのオペラの最終公演にプログラムが組まれたことには深い意味がある。最後の二つのオペラの間には実に1世紀を越える年月の隔たりがあるということは、そのスタイルの連続性に驚くともに、この作品が総じてオペラの進化につながる兆しである。
ルビンシテイン「デーモン」 スメルコフ「カラマーゾフの兄弟」
マリインスキー劇場/ワレリー・ゲルギエフ
バービカン・ホール ロンドン 2009年2月3日
マリインスキー・シアター・トラストの大きな貢献により、マリインスキー劇場の英国ツアーは、ここ数年ほぼ定期的なものとなった。有名な軍馬の伝統的な作品だけでなく、ロシア以外ではほとんど知られていないか演奏されることのない作品を数多く紹介し、イギリスの聴衆にマリインスキーの良質に選ばれた芸術を味あわせてくれた。
ゲルギエフ(写真はMusical Criticism)
今回のバービカン公演では、マリインスキーは3つのオペラを演奏会形式で上演した。超有名なチャイコフスキーの「スペードの女王」、イギリスでは無名のルビンシテインの「デーモン」、そしてイギリスの初演のアレクサンドル・スメルコフの「カラマーゾフの兄弟」(マリインスキーの委嘱で2008年に完成)である。 チャイコフスキーを聴くことはできなかったが、残り二夜の公演は素晴らしく貴重な機会だった。マリインスキーの芸術監督兼総裁で、世界でも最も有名な指揮者の一人、ワレリー・ゲルギエフの指揮により、この世界的なカンパニーを聴き、イギリスの聴衆には新しい音楽を発見することができたのである。
二夜全体を通して最も感銘をうけた印象は、マリインスキーの芸術家たちのアプローチがオペラに対してどれくらい敏感であり、現代的であるかということである。重苦しいスラブのビブラートや悲しげな演奏、暗くなりすぎの音質といったあらゆる既成概念を捨てて聴いてほしい。演奏全体を通して素晴らしいボーカル技術の手堅さは顕著であり、明快で直接的な発声と人なつこく率直な表現を可能にして、新鮮な率直さで特徴づけられた音に導いていく。 また劇的なことに、演奏会形式という状況においてさえ、多くの歌手は全力を傾けて、それぞれの登場人物の状況や感情に移入し、生来の役者さながらである。肉体と音楽のパフォーマンスが統合した有機的な方法は、多くの他の有名オペラ劇場の舞台で見られるものよりも素晴らしいものであった。
《中略》
ゲルギエフ(写真はMusical Criticism)
「デーモン」の公演でこのすばらしいカンパニーによって表現された特質の多くは、次の晩の「カラマーゾフの兄弟」では一層目をひいた。このオペラはドストエフスキーの小説を原作としているが、この小説には多くの顕著な特徴があるが、オペラにおあつらえ向きのようなたぐいの簡潔で直線的な物語はこの小説にはみられない。スメルコフのオペラ劇作家(ユーリ・ディミトリン)は、原作の感覚を大切にし、ストーリーの一部を明確には形作らない大審問官のような主要なエピソードを賢く残しながら、わかりやすいドラマに凝縮するのに素晴らしい仕事をした。しかし、ゲルギエフがその場にいたことは願ってもないことであり、作曲家とオペラ劇作家の力になった。
スメルコフの音楽言語は驚くべきものであり、21世紀のオペラ作曲家であれば使用するはずの作曲のスタイルを期待するとそれは裏切られる。最初に頭に浮かんだ言葉は「後期ロマン派」というものであるが、この言葉でさえ実際の音楽よりはまだ進歩的に聞こえる。スコアの多くは、ムソルグスキーに近いチャイコフスキーのように聞こえ、時折あらわれる「ムツェンスク郡のマクベス夫人」のダンス音楽に似たところでは皮肉な外観のショスタコーヴィチに聞こえる。実際のところ、スメルコフが1850年生まれではなく1950年生まれだという唯一の表れは、20世紀ならではの音楽のおかげで、彼には魔法の道具があると思いこんでいる事実だった。すなわち、劇的な場面ではオーケストラ全体が大きな不協和音を奏で、悪魔が現れる場面では異国情緒を醸し出すため珍しいパーカッションを用いた。しかし、全体にまとまっているとは思えないようなこれらの不調和でさえ、模倣であると感じた。前者の例はプロコフィエフであり、後者の例はドビュッシーとラヴェルである。
それでも、音楽そのものとして聴けば、つまらないものでも退屈なものでもない。声に共鳴するように書かれた現代のオペラだとわかってほっとした。何人かの登場人物は、アリアとして機能する独唱の場面を展開したが、中でも際立ったのはエレーナ・ネべラが歌ったカテリーナ・イヴァノヴナのアリアである。彼女の役が思い悩んでいる場面では、音域が広い叙情的なソプラノで繊細に歌われた。オーケストラは彼女の歌を支え、色づけしたが、決して圧倒することはなかった。もう一人別の歌手がいた。彼女は、独特の声で、技術的なことに注意をはらう必要がなく、まさにすばらしい音楽的・劇的な天賦の才能にゆだねるにして、言葉を鮮やかに表現する。
カプスチンスカヤは、前夜のエンジェルよりも一層幅広い声や技巧を駆使するグルーシェニカの役で、再び感銘を与えた。ネベラが役に入り込むのと同じくらいにカプスチンスカヤができたとまではいえないとしても、それでも彼女は2006年にウクライナの国立チャイコフスキー音楽院を卒業してまもない歌手としてはおそろしく高い完成度を示した。
三兄弟は、それぞれ魅力のある対照的な声をもち、いい配役だった。アヴグスト・アモノフの甘いテノールは、劇中だんだんと神経過敏になっていくドミートリーの音楽に良く合っていた。声にわずかに金属的なうなりがあるアレクセイ・マルコフの大胆なバリトンはイワン役として印象的であり、イワンがますます人をいらだたせ、ついには狂気におちいるところはことさら印象に残った。また、敬虔なアリョーシャ役には、ウラディスラフ・スリムスキーの柔らかい叙情的なバリトンが理想的であった。スメルジャコフを歌ったアレクサンドル・チミシェンコもまた称賛の対象に選ばれるべきである。チミシェンコはテノールの性格歌手だが、この性格歌手という言葉が示すかもしれない技術的な短所は何もない。実際、チミシェンコの歌はいつも美しく趣味がよかった。チミシェンコの言葉の使い方と想像力に富んだ言い方は、リアルな影響を与え、記憶に残る方法で複雑な人間を描写するのに成功した。マリインスキーには驚異的な強さがあることをさらに確認するとすれば、仮にその必要があればということだが、それぞれが確実さとボーカルの魅力を示す合唱団の構成員による短いソロを聞けば十分だろう。
二夜のオーケストラの響きが願ってもないほど鮮やかで洗練されていたことは言うまでもない。このアンサンブルに関しては古めかしいところや停滞しているところが何もない。それを確かめるのに大きな役を演じなければならないプレイヤーは、若手と熟練が絶妙のバランスとなっている。ゲルギエフとのアンサンブルとの関係は明らかに長年にわたっており、その利点は自明のことである。指揮者のほんのわずかな動きでも共通に理解され、美しい表現という結果に結びついているようだ。このように述べたところであるが、合唱団は理想と比べると繊細な動きに敏感に反応しているとは思えなかった。
この二夜は、私がこれまで聞いた中で最も高品質な音楽だった。ニキーチンのように、歌手たちの何人かは、フリーランスのキャリアを得ているが、マリインスキーの抜群の感覚は偉大なオペラ・カンパニーの一つである。コベントガーデンとメトロポリタンのように、公演のために膨大なギャラで国際的なソリストを少しずつ呼び寄せたコレクションよりもむしろすばらしいといえる。歌手たちは、主要な役か補助的な役かにかかわらず、音楽の準備と台本への注意について同じように高い水準を示し、それぞれ素晴らしい声と理想的なテクニックを持っていた。彼らの略歴をみると、多くの歌手は驚くほど多彩で重要な役ばかりの長いレパートリー・リストを持っている。印象的なのは彼らのスケジュールが過酷であるということで、例えばベズベンコフとチミシェンコ、カプスチンスカヤは、なんとバービカンの三夜全てで歌っているのである。しかし英国や米国の若手歌手が絶えず注意するよう促されるこれらの要因にもかかわらず、もっと厳格なアンサンブルが今日オペラを演じるのをみつけるのは難しいだろうから、そこには何らかのマリインスキーのシステムが機能しているのであろう。
ジョン・ウッズ