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オペラ「カラ兄」の評判(その8)

 オペラ「カラマーゾフの兄弟」の批評の第8弾。前3回に引き続き、2月1日、ロンドンのバービカン・ホールで演奏会形式で行われた公演についてであるが、今回は『Financial Times』)に掲載されたものである。拙訳で紹介する。 karamazov_mari_01 マリインスキー劇場での世界初演(写真はIntermezzo
パッチワークの叙事詩

アンドリュー・クラーク

2009年2月2日

「スペードの女王」「デーモン」「カラマーゾフの兄弟」 バービカン ロンドン

 ロシアのオペラには二つの伝統がある。創造性の伝統と解釈性の伝統である。ワレリー・ゲルギエフは、20年前にサンクトペテルブルクのマリインスキー劇場に来て以来、後者の解釈性の伝統に関してすばらしい成果を上げてきた。ゲルギエフは、ロシアが19世紀後半から20世紀前半にかけて偉大なオペラの国の1つであった時代の演目と歌劇の文化を復活した。マリインスキーの評価が国際的に回復されてきたところで、ここ2、3年は劇場の過去と現在の結合を図る一連のオペラを委託することにより、ゲルギエフは創造性の伝統にも着手した。 新作オペラ、アレクサンドル・スメルコフの「カラマーゾフの兄弟」は、日曜日のバービカンでイギリス初演を行った。マリインスキーの引越し公演では、ほかに黄金期の2つのオペラ、チャイコフスキーの「スペードの女王」とアントン・ルビンシテインの「デーモン」を演目とした。

 カラマーゾフの兄弟は奇妙な経験だった。スメルコフ(1950年生まれ)は、ロシアの外はもちろん、サンクトペテルブルクの外でもほとんど知られていない。開演前にスメルコフが行ったプレトークは散漫で、ショパン風の自作ピアノ音楽を弾き散らすことに大半の時間を費やしていたが、このオペラの作風は挑戦的な調性であると話しただけで、他には何の情報もなかった。文学の世界ですらドストエフスキーの巨大な小説が何を書いたのか結論が出ていないというのに、いったいなぜこの小説を音楽化しようとするのか。しかし、スメルコフは、この小説を表現するのに、この100年にわたる音楽形式をつなぎ合わせたパッチワークを用いた。すなわち、ムソルグスキー、チャイコフスキー、ショスタコヴィッチがひときわ目立つが、ブラームスの強調も少し弱めに使われている。その結果は、精巧にできた、とても歌いやすい楽曲による音楽の壁紙となったが、この小説の物語的な叙事詩や哲学的な次元を表現することはできず、小説自体がもつ個性に相当するものは何も表現しなかった。 

 スメルコフは、古典文学の名声とオペラ劇作家ユーリー・ディミトリンの能力を利用して、因習的な場面の連続に変えた。スメルコフは、ドストエフスキーの重要な女性登場人物の性格を変えるのに成功し、自堕落なグルーシェニカをオペラの妖婦とした。しかし、彼女を渇望するカラマーゾフ家の男たちと同様、グルーシェニカもスメルコフの人物描写が十分ではないため、魅惑されるというほどではなかった。カラマーゾフの兄弟は、合唱の高揚や対立的なアンサンブル、愛の二重唱、独唱等の寄せ集めとなって、セックスや強欲、家族の不和をとりあげた、単なるホームドラマとなっている。

 スメルコフがそれに値しないにもかかわらずマリインスキー劇場は彼に全幅の信頼をおき、すべての音を信じきって演奏した。ゲルギエフがこの独創性のない音楽で同時代の人々の心を動かすことができると思っているとすれば、それは間違っている。ロシアにおける新しいオペラの探求は、50年以上前のプロコフィエフの死以来途絶えていたが、今後も探求は続くだろう。

 去年の夏サンクト・ペテルスブルクでの「カラマーゾフの兄弟」初演は、マリインスキー劇場の伝統に捧げられたものだったので、聴衆にも好意的に受け取られた。マリインスキーは、内部の訓練システムで養成することにより、歌手たちを無尽蔵に供給し、つねに更新を続けている。今回のロンドン引越し公演では、いくつか記憶に残るものもあったが、クリスティーナ・カプスチンスカヤほど強烈な印象を残したものはほかにない。彼女は、ソプラノのような質のメゾソプラノで、カリスマ的なグルーシェニカを演じた。他に、光沢があるエンジェル(「デーモン」)はコンサート・ホールにマリインスキー劇場独特の雰囲気を醸し出した。独壇場となったポリーナ(「スペードの女王」)、その他すべてのマリインスキーのソリストたちと同様、動物的な力と本能的な強さでデーモンを演じたエフゲニー・ニキチンもそうである。3番目に注目すべき名前は、バリトンのアレクセイ・マルコフで、チャイコフスキーと同様に高い栄誉をスメルコフにもたらした。

 すばらしいウラジミール・ガルシン(ゲルマン)とイルマ・ギゴラティ(タマーラ)、ゲンナジー・ベズベンコフ、その他マリインスキーの老練で頼りになるメンバーたち、献呈と全く独特の音のためのオーケストラにコーラス、そうした軽いタッチで彼の音楽一家を囲いに入れるためのゲルギエフに花束を捧げたい。
karamazov_mari_02 マリインスキー劇場での世界初演(写真はIntermezzo
 スメルコフの音楽が成功していないという点では、イギリスの評論家たちの意見は共通しているようだ。
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まいじょ * オペラ * 11:12 * comments(0) * trackbacks(0)

オペラ「カラ兄」の評判(その7)

 オペラ「カラマーゾフの兄弟」の批評の第7弾。前回、前々回に引き続き、2月1日、ロンドンのバービカン・ホールで演奏会形式で行われた公演についてであるが、今回は『The Telegraph』)に掲載されたものである。記事末尾の「カラマーゾフの兄弟」に関する部分を拙訳で紹介する。

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フョードル役のニコライ・ガシエフ(写真は、Intermezzoより)

バービカンでのマリインスキー・オペラ――マエストロの一座は最高の状態

 ワレリー・ゲルギエフの指揮の下でマリインスキー・オペラの3晩にわたるバービカン公演には、「スペードの女王」、「デーモン」、および「カラマーゾフの兄弟」が含まれていた。

ルパート・クリスチャンセン

2009年2月2日

《中略》

 1950年生まれのアレグザンドル・スメルコフは、私にとっては初めてきくロシア人の作曲家だ。去年の7月に初演したドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟に基づく彼のオペラは衝撃的に風変わりなものだ。 引用はベートーベンからショスタコヴィッチまで、あらゆる作曲家からのものが詰めこまれている。挑戦的な調性で、後期ソ連のスタイルにおいてリリカルで理解可能であり、たくさんの感情的なエネルギーとあざやかな荘厳さをみせた。このオペラが舞台上でうまくいくのかどうかに興味がある。というのは、今回の(演奏会)形式では、物語として支離滅裂に思えたからである。 ゲルギエフとマリインスキーは誇りをもってこれを演じた。今回の引越し公演は、幸いにも、カンパニーが一貫して最高の状態にあることを示した。
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中央:台本のユーリー・ディミトリン、右:作曲家のアレクサンドル・スメルコフ(写真は、Intermezzoより)



 演奏会形式での「カラマーゾフの兄弟」の再現には限界がある。引越公演では難しいだろうが、舞台をフルにつかった完全なオペラ形式で再評価されることを期待したい。

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まいじょ * オペラ * 23:18 * comments(0) * trackbacks(0)

オペラ「カラ兄」の評判(その6)

 オペラ「カラマーゾフの兄弟」の批評の第6弾。前回に引き続き、2月1日、ロンドンのバービカン・ホールで演奏会形式で行われた公演についてであるが、今回は『The Times』)に掲載されたものである。拙訳で紹介する。

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イワン役のアレクセイ・マルコフ(写真は、Intermezzoより)

2009年2月4日

カラマーゾフの兄弟 バービカン

ゲオフ・ブラウン

 これらの蝶ネクタイ姿の男たち、葬儀屋のように舞台に出入りし、苦悩や色欲を見せる登場人物たちは誰なのか。演奏会形式のオペラでドラマチックな雰囲気を出すのはいつも簡単ではない。だが、このオペラで台本に詰め込まれたドストエフスキーの小説「カラマーゾフの兄弟」を理解することは、大向うの観客を試すような仕事である。

 あの男は兄弟のうち誰なのか? ミーチャか、イワンか、アリョーシャか、スメルジャコフか? このオペラは、昨年の夏、サンクト・ペテルスブルクの初演では回転するセットで上演されたが、その初期の旋風では、簡単すぎて脳がぼけるほどだった。 同じようにアレクサンドル・スメルコフのむらのある音楽は、聴いていてめまいがするほど簡単であり、1890年の衝撃がない調性で作られていた。

 しかし、ワレリー・ゲルギエフとマリインスキー劇場の気鋭の軍団が暗闇を突き進み第2幕に入るまでは、暗いとはいえ、まだ真っ暗ではなかった。

 歌声と役作りによって、登場人物に光をもたらした。ワシリー・ゴルシコフは、子育てをしないカラマーゾフ家の父親で、この最も哲学的な推理小説の引き金となる殺人事件で殺される、フョードルの放蕩な性格を表した。ウラジスラフ・スリムスキーが見せた信心深いアリョーシャの苦悩は、心を揺さぶらせた。アヴグスト・アモノフのテノールは、頭の頂部は禿げだが、放蕩なミーチャに適度の苦悩をもたらした。

 エレーナ・ネベラのカテリーナ・イヴァノヴナは、クリスティーナ・カプスチンスカヤのグルーシェニカ(このオペラのイゼベル)より多くの個性を表現したが、二人とも会場を震わせる方法を知っていた。アレクサンドル・モロゾフの大審問官(ユーリー・ディミトリンの台本で発育不全の登場人物)も、マリインスキー劇場の一座も、場違いの制服を着たエルサム・カレッジ合唱団もためらいがなかった。

 スメルコフのスコアは、結局、ある種の焦点に滑り込んだ。 スメルコフはゲルギエフの学生時代からの友達であり、彼の作品(他の5つのオペラを含む)はいつもロシア国内にとどまっていた。われわれは輝ける才能の不在に気づいたわけではなく、このカラマーゾフは「泥棒かささぎ」の仕事だということだ。でも、彼は賢い作曲家である。そして、彼の泥棒は適切であるとことに気づかされる。怪奇なショスタコーヴィッチがここにあり、 炎熱のチャイコフスキーがそこにあり、時には甘くなったプッチーニがあらわれるといった具合である。

 最も感激的なのはロシアの東方正教会の聖歌を思わせる音楽であり、ダブルベースと鐘の伴奏で8人の主要人物が共に有罪について思索するところである。私はまもなくこのカラマーゾフの暗闇を忘れるだろうが、この哀歌は心に残るだろう。
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右:フョードル役のニコライ・ガシエフ(写真は、Intermezzoより)

 『The Times』でもスメルコフの音楽に対する評価は手厳しい。
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左:グルーシェニカ役のクリスティーナ・カプスチンスカヤと右:作曲家のアレクサンドル・スメルコフ(写真は、Intermezzoより)
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まいじょ * オペラ * 23:59 * comments(0) * trackbacks(1)

オペラ「カラ兄」の評判(その5)

 オペラ「カラマーゾフの兄弟」の批評の第5弾。今回は、2月1日、ロンドンのバービカン・ホールで演奏会形式で行われた公演についてのもので、『The Independent』)に掲載されたものである。拙訳で紹介する。

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ゲルギエフ(写真は、Intermezzoより)

スメルコフ「カラマーゾフの兄弟」 マリインスキー劇場/ゲルギエフ (バービカン・ホール)

エドワード・セッカーソン

2009年2月2日月曜日

 ドストエフスキーの小説「カラマーゾフの兄弟」をオペラにしようという挑戦をする人は、勇敢というか無謀である。

 アレクサンドル・スメルコフとユーリー・ディミトリンがマリインスキー劇場のために書いた台本の長い第一幕を通して、その勢いにのっているうちは、速読のような効果が感じられた。小説をまったく知らない人は、物語の奔放な勢いや登場人物や考えが入り乱れることにより、大きな笑劇の中にでも放り出されたかのように感じるかもしれない。ドストエフスキーの最後の小説は、ある程度、まさしく混沌とした社会とそれを動かす人間の状態を解剖したものである。しかし、痛烈な皮肉と悲劇との間で適正なバランスを図ることに、作曲家と劇作家がもっと気をつけれいれば良かったのにと思った。

 もう一つの問題は、このオペラが驚異的に独創的な小説をもとにしながら、驚異的に非独創的な音楽を通して再現していることである。スメルコフのスコアは、引用と借用にあふれているため、彼自身の音楽はいったいどこにあるのかと思うほどである。冒頭の数小節ではブラームスの交響曲第1番を思わせるライトモチーフによって迫りくる悲劇の重さが伝えられる。形式やスコアでも、姿勢でも、その類似性に聴衆が困惑するほどには、音楽の力で心をつかまれることはない。やがて1分後くらいには、ショスタコーヴィチの「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の有名なパッサカリアの冒頭部にそっくりなものに変形する。ベートーベンの第九交響曲が、繰り返し現れる。女性の主要人物グルーシェニカ(魅力的なクリスティーナ・カプスチンスカヤ)は、チャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」から借りた高揚するモチーフを通してロマンチックな混乱を歌う。そんなふうにオペラは進行していく。

 スメルコフの曲づくりの妙、オーケストラの響きにおける彼の技量と巧みさについては疑いをはさむものはない。だが、スコアの多くの部分が中古のショスタコーヴィチとチャイコフスキーのように聞こえるので、小説で感じる過剰な情熱も、オペラでは変な模造品のように感じた。 そして、主要登場人物のすべてが有罪という、どうにも忘れることのできない九重唱曲で感動の頂点に達するとき、これもまたカタルシスのパロディーのようなものではないかと感じた。

 言うまでもなく、ドストエフスキーの多彩な登場人物たちのギャラリー(ここにはロシア社会のすべてがある)は、マリインスキー劇場の歌手たちが凄まじく多才な声を根気よく出すことにより、ベストを発揮した。ワレリー・ゲルギエフはいつもの速さで舞台を進行した。しかし、これは世界的な事件ではなく地方の事件にすぎない、と私には思えた。


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グルーシェニカ役のクリスティーナ・カプスチンスカヤ(写真は、Intermezzoより)

 演奏会形式で上演されたものでどこまでオペラの真価が伝わるのかわからないが、ロンドン公演の評価は手厳しいものが多い。

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写真は、Intermezzoより



 

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まいじょ * オペラ * 23:53 * comments(0) * trackbacks(2)
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