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ゲルギエフとマリインスキー
ドーレン・コンサートホール(ロッテルダム)
評者:マイケル・チャーチ
2008年9月15日月曜日
ドストエフスキーの強迫観念は、肉体的かつ精神的な痛みを伴い、強調がたえまなく続く文体となって、「カラマーゾフの兄弟」が大受けするような理想の本ではなくしている。この900ページの感動的な大作は、オペラ向きの理想的な素材ではない。これを原作にしたオペラは2つあるが、どちらも時の試練に耐えるものではなかった。
ここでロシアの作曲家アレクサンドル・スメルコフによる作品が現れたが、スメルコフと現在の指揮者ワレリー・ゲルギエフとのつながりは1974年にまでさかのぼる。その年、スメルコフの卒業制作作品は、芸術学校の同窓の学生だったゲルギエフというによって指揮されたのである。最近サンクトペテルスブルクで初演されたスメルコフのオペラが、ロッテルダムで演奏会形式により上演されたのを聴くことができた。このオペラは、2月1日、ゲルギエフとマリインスキーはロンドンのバービカンでも上演されることになっている。
ジークムント・フロイトとアルベルト・アインシュタインは、ドストエフスキーの小説を最も早くから評価する思想家であったが、他の多くの人々はドストエフスキーの主張について議論してきた。ある意味では、19世紀のロシアにおいて、「信仰と理性」、「キリスト教の信仰と無神論」、「保守主義とニヒリズム」といった対の間にある思想の激しい対立を具現化したものである。一つの重要なイメージは、地上に復活し、イエズス会の司祭(訳注:大審問官)により追われるイエスである。また、もう一つ重要なのは、カラマーゾフ家の人々の生活にすっかりしみ込んでいる「聖者/罪人のパラドックス」(訳注:われわれは聖者であると同時に罪人であるというキリスト教独特のパラドックス)である。物語の構造は、黒澤映画の「羅生門」のそれと似ている。この映画では、3人の主人公の誰が重要な殺人を犯したかについて考えさせたままなのである。しかし、筋を燃え立たせるものは、子の激怒、性的妄想、子供をなくしたトラウマといった感動的な材料である。
スメルコフは大きな思想に焦点を合わせた。冒頭から彼の交響的なスタンスは明白であり、挑戦的な調性の作品である。しかし、この伝統的な枠組みの中に彼はいくつもの素晴らしい音楽の瞬間を魔法で呼び出す。男声八重唱は、決して忘れることはない。あのアリアには、主要人物アリョーシャの夢を反映する鐘と静かなダブルベースが伴奏した。スメルコフはまさしくマスター作曲家である。
ゲルギエフと彼のカンパニーがロッテルダムと同じようなパフォーマンスをバービカンでもするなら、われわれは素晴らしいものを観ることになる。テノールのワシリー・ゴルシコフとアヴグスト・アモノフの二人は、バリトンのウラジスラフ・スリムスキーや、ソプラノのエレーナ・ネベラ、メゾソプラノのナタリア・エフスタフィエヴァ、そして扇動的な輝きのオーケストラの演奏によって補われている。