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薄餅からクレープへ

 沼野充義・東大教授(ロシア文学)のエッセー「薄餅とクレープはどちらが美味しいか?−−翻訳について」(『UP』 424号(2008年2月))が面白い。

 沼野は、まず、『カラマーゾフの兄弟』がこんなに読みやすくていいの? と問い、亀山郁夫・新訳『カラマーゾフの兄弟』のベストセラーとなった理由は、亀山訳が驚くほど読みやすい現代語になっているので、読んでいて引っかかるところがほとんどないからだと述べる。
 これは、先行訳で何度か読破しようと試みて挫折したことがあり、亀山訳ではじめて一気に通読できた私自身がまさに実感したことである。
 なぜこれほど読みやすい翻訳が生まれたのかというと、「やはり原作の異様な迫力と、それと張り合うだけのカリスマ的な訳者自身の情熱とが絶妙な組合せとなって魔法のような化学反応を起こし、読者に訴えかけたのだ」という。

 次に、時代によって翻訳家が選択した言葉の変化にふれる。『カラマーゾフの兄弟』のエピローグの名場面、亡くなったイリューシャ少年を弔う場面で、アリョーシャが、宗教が教えるように死人はきっとよみがえり、皆が互いに会って昔のことを楽しく語りあう日が来るに違いないと言った、そのあとである。
「それって、ほんとうにすばらしいですね!」コーリャが思わず口にした。
「さあ、話はこれぐらいにして、あの子の供養に行きましょうよ。あんまり気にせず、クレープを食べて下さいね。昔から、ずっとつづいている良い習慣なんですから。」アリョーシャは笑いながら言った。
亀山郁夫訳(初版平成19年)

 この「クレープ」はロシア料理の「ブリヌィ」のことだが、米川正夫訳(初版昭和3年)では「薄餅」(ブリンのルビ付き)、小沼文彦訳(初版昭和38年)では「パン・ケーキ」、原卓也訳(初版昭和53年)では「ホットケーキ」となっており、何とすべて訳し方が違っている。それにしても薄餅からクレープへ、わずかの間にものすごい変化ではないか。

 こうしたいわば現代化の流れにあえて逆行するような例として、大江健三郎の『臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ』と、そのタイトルの起源となったエドガー・アラン・ポーの「アナベル・リイ」の日夏耿之介訳を紹介する。大江の長編小説はずいぶん話題になったので、書名はよく目にするけれども、一字目の漢字が私には読めなかった(恥)。調べたら、「らふたし」と書いて「ろうたし」と読むのだそうである。「臈たし」なんて今まで聞いたことがないし、他で読んだこともない。で、「臈たし」と訳した言葉は、英語では何と "beautiful" なのである。T・S・エリオットの一節、"What! are you here?"を「なんだ、君はこんなところにいるのか」と訳した西脇順三郎とともに、いわば確信犯的に日本語の規範から逸脱しようとしている。

 そして、ベンヤミンの「翻訳者の使命」を引用しながら、「外国文学の受容のプロセス全体を考えた場合、原語(source language)と翻訳先原語(receptor language)がそれぞれ独立してあるのではなく、その両者を統合し媒介するような場を想定すべきだ」という。
 このことをふまえ、翻訳にあたっての戦略には次の三つの類型がありうると指摘する。

 第一は、翻訳先言語に焦点を合わせ、異質な要素を翻訳者の文化の文脈に「適応」させてしまうもの。「カラマーゾフの兄弟」新訳が実例。
 第二は、翻訳先の文化環境にとって異質な要素を残し、あくまでも言語への忠実さを目指すもの。日夏耿之介や西脇順三郎がその実例。
 第三は、第一の同化的アプローチと第二の異化的アプローチを媒介するもの。翻訳者の母語と外国語の間を媒介し、そこにいわば第三の言語を作ろうとするもの。

 第三のタイプの翻訳は、現実には存在しないのかもしれないが、沼野はその媒介的な場で展開するものこそが「世界文学」と呼ばれるに相応しいと結論する。

 『カラマーゾフの兄弟』の新訳を読んだことをきっかけに、ここのところ、さまざまな訳者によるドストエフスキーを続けて読んでいる。時代による変化もさることながら、翻訳者の個性、あるいはその翻訳の戦略によって、翻訳は本当に大きく変化することを実感しているところなので、沼野の文章はとても興味深く読めた。

 その沼野の親友でありライバルでもある亀山は、今少しずつ『罪と罰』の翻訳に取り組んでいるが、あるラジオ番組で「こんどの『罪と罰』は、『カラマーゾフの兄弟』よりも硬い翻訳になるかもしれない」と述べていた。これはもちろん第一の「読みやすさ」の戦略を捨て、第二の戦略に転換するという意味ではないだろう。もしかすると、亀山は、沼野のいう第三の戦略をとり、「世界文学」をめざすということではないだろうか。

 翻訳者のあり方にかんする次の文章も興味深い。
 でもだからこそ、訳者はディフエンシヴにだけ訳すのでなく、オフェンシヴに仕事をしてほしいとも思います。「原作者の言語ではこういうことはできないけれど、わたしの言語ではこういうことができるんだぞ」とか、「作者は自分では気がついていなかったみたいだけれど、この作品にはこういう隠された面白さもあるんだよ」ということを積極的に探していく態度も翻訳家には必要な気がします。文学の翻訳は、作品の中の「情報」を訳すのではないはずです。なぜなら、文学を文学にしているのは、情報ではないからです。それが一体何なのかを原文において自分なりに理解し(この段階がすでに作者にとっては誤解されるということですが、しかし、誤解以外の理解の仕方はないのでそれでいいのです)、それを別の言語で再現するということは、一種の演出です。演出家として何らかのアイデアが必要ということになるでしょう。原文をなぞっているだけでは平板になってしまいます
多和田葉子「ある翻訳家への手紙」

 日本語にこだわるか、原語にこだわるかの違いはあっても、第一の戦略と第二の戦略はディフエンシヴに訳すという点では変わらないと思う。オフェンシブに翻訳するというのは、文学の翻訳が新たな世界文学の創造をめざすということではないか。

 亀山新訳『罪と罰』が『カラマーゾフの兄弟』を超え、文学に新たな地平をきりひらくことを期待する。
JUGEMテーマ:読書
まいじょ * * 00:36 * comments(2) * trackbacks(1)
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