昨日(1月5日)、新宿の朝日カルチャーセンターで、
亀山郁夫先生の公開講座
「ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』続編を「再考」する」という公開講座を聴講してきた。
「カラマーゾフの兄弟」の新訳で評判の亀山先生が、翻訳の勢いで書かれた「
『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」をめぐって賛否両論の渦が起きているという。この本に対する誤解を解き、その後の研究の成果も合わせて、もしもドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』の続編を書いていたとしたら、それはどんな内容であったかをあらためて徹底的に検証したものである。
レジュメの見出しだけあげると、以下のとおり。
1 『ドストエフスキー 謎とちから』から見えてきたもの
2 スメルジャコフと去勢派
3 続編を空想するための条件−−空想が妄想に堕さないために
4 インターミッション−−ドストエフスキーは『続編』を書きえたのか?
5 『カラマーゾフの兄弟』は、1866年の物語か
6 ニコライ・クラソートキンの運命
講義の内容はとても高度で、おそらく大学院の講義レベルだろうが、直前まで関連本を集中的に読んできたおかげで、私にも何とかだいたいは理解できたような気がする。
「スメルジャコフと去勢派」は圧巻だった。先生はブログでも、異端派の話をすると、聴衆の目の色が輝くというようなことをおっしゃっていたが、去勢の具体的な方法とか、去勢の最終段階では身体のどこに手をつけるかといった話になると、おもわず身をのりだしてしまった。
また、講義の最後の方で触れられた、ドストエフスキーのアパートの向かいの部屋に、皇帝暗殺をねらったテロリストたちの巣窟があったという話には本当にびっくりした。本当に皇帝暗殺が実行されたとき、ドストエフスキーがもし生きていたら、テロリストとの関係を疑われたに違いない。さっそく
ラジンスキーの「
アレクサンドル二世の暗殺」を注文してしまった。
先生の講義で、個人的にうれしかったことが二つある。一つは、私がこのブログに書いた書評(
亀山郁夫「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」)を、「WEB上での批評」として配布資料に入れてくださったのだ。池澤夏樹や沼野充義といったプロの書評と同列で、である。もう一つは、自伝層についての解説のなかで、同じくこのブログに書いた文章(
「キッド」におけるチャップリンの自伝層)についても、批判をまじえてコメントしてくださった。先生はネットでも発信していらっしゃるが、ご自身のブログ以外のところに書き込まれたことは、これまで3回しかないという。その1回が私のブログへの
コメントだったというのである。本当に身に余る光栄である。昨年来、亀山先生の著書を通じてドストエフスキーに傾倒してきたことが、少しは報われたような気がする。
2時間の講義は、あっという間に終わった。レジメの内容からすると、少なくともあと1時間くらいお話しすることが残っていたようにと思う。今度は連続講座のような機会があれば、ぜひ聴講してみたい。それまでに、ドストエフスキーの未読の作品を読了しないといけない。今はそれがすごく“お楽しみはこれから!”だ。