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イリーナ・メジューエワ ピアノ・リサイタル

 昨日(10月28日)は、杜のホールはしもとで「イリーナ・メジューエワ ピアノ・リサイタル」を聴いてきた。メジューエワは、ロシア生まれで、1992年オランダのE・フリプセ国際コンクールで優勝、ヨーロッパで演奏活動を開始し、1997年以降は日本を本拠地として活躍しているピアニストである。

イリーナ・メジューエワ

 プログラムは、
01 ショパン:ノクターン 嬰ハ短調 遺作
02 ショパン:幻想即興曲 作品66
03 ショパン:ワルツ イ短調 作品34の2
04 ショパン:ワルツ ヘ短調 作品34の3
05 ショパン:ノクターン ハ短調 作品48の1
06 ショパン:バラード第1番 ト短調 作品23
<intermission>
07 ドビュッシー:ベルガマスク組曲
08 スクリャービン:左手のためのプレリュードとノクターン 作品9
09 メトネル:田舎の舞曲 作品38の4《「忘れられた調べ」より》
10 メトネル:夕べの歌 作品38の6《 〃 》
11 メトネル:波の舞曲 作品40の5《 〃 》
12 メトネル:祝祭の舞曲 作品38-3《 〃 》
<encore>
13 ラフマニノフ:プレリュード
14 ショパン:ワルツ 変ニ長調 作品64-1(小犬のワルツ)
15 ショパン:ワルツ 変イ長調 作品64-3

 メジューエワのピアノを生で聴くのは、これで2回目だ。楽譜を見ながら演奏する人は、プロではそれほど多くはないと思う。メジューエワは「どんなに頭に入っている曲でも楽譜を見ながら演奏することが重要だ」と前回のリサイタルのプログラムで書いていた。

 ショパンやドビュッシーは聞き慣れていることもあって、かなり遅いテンポの演奏は最初はまだるこしくも感じたが、どの1音も楽譜から外すまいとでもいうように丁寧に弾かれ、スローなテンポに慣れてきたら音の流れに身をまかせ、たゆたうような感覚になってきた。派手な演奏を聴くことが多いなかで、メジューエワの、地味だが奥の深い、内省的な演奏は、日本人の心にしみるものがある。

 満ち足りた気分で帰ろうとしたら、川崎に住むショパン大好き叔母さんに声をかけられた。久々に会ったのでお茶でもと誘ったのだが、遅くなるからとそそくさと帰ってしまった。ホールを出てから、自宅まで歩いてわずか5分。自分でいれたコーヒーで余韻を楽しむのもまた格別である。

 
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まいじょ * 音楽 * 12:52 * comments(3) * trackbacks(0)

「キッド」におけるチャップリンの自伝層

 昨日、(亀山郁夫「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」)で、ドストエフスキーの小説世界を、象徴層、自伝層、物語層という上中下の三層構造として捉えるアプローチを紹介した。

 この分析手法を、映画「キッド」にあてはめ、三層構造として捉えたらどうなるか。キッドの映画世界におけるチャップリンの自伝層がどのようなものかを探ってみたい。

三層構造

 「キッド」の物語層をまとめると次のようになる。母親が、やむをえず赤ちゃんを捨てる。その赤ちゃんをチャップリンが拾う。なさぬ仲の父子家庭で、チャップリンは苦労して5歳になるまでその子を育てあげる。その間、母親は歌手として成功し、子供たちのために慈善活動を行うまでになった。チャップリンの育てた子供が病気になったことから、施設に引き取られることに。チャップリンは一度は子供を取り戻す。だが、実の子の消息を知った母親は警察や報償金という力を借りて、子供を自分の元に引き取ることに成功する。わが子を奪われたチャップリン。だが、最後は警察に連れられて母親の家に招かれ、キッドと再会する...

 「キッド」の象徴層は、やはりキリスト教にかかわる神と悪魔、善と悪であり、それがこの映画の物語層を動かすテーマとなっている。直接対立することはないが、「育ての親」と「産みの親」の、子供に対する愛の葛藤のドラマでもある。福祉をめぐる「家庭」と「行政」の棲み分けといったことも、もしかしたら象徴層レベルのサブテーマの一つとなるかもしれない。

 では「キッド」におけるチャップリンの自伝層とは何か。

 第一に、チャップリンの第一子がこの映画の制作開始の直前に死んでいることに注目する必要がある。それが子供をテーマとする映画をつくる動因になったことは推測がつくし、この映画での子供への親密な愛情表現につながっていると考えられる。

 第二に、チャップリン自身の少年時代の体験にも目を向ける必要がある。チャップリンが1歳のときに両輪が離婚。極貧のなかで母親は精神病院に入院。まもなく父は酒の飲み過ぎで死去し、幼い兄弟は貧民館や孤児院を転々とする。こうした体験があればこそ、チャップリンは、キッドから迫真の演技を引き出すことができたのだと思う。

 第三に、チャップリン自身の芸の力のみによる成功にも着目しておきたい。男に捨てられ、生活力もないために、やむをえず子供を捨てた母親。だが、歌手としての実力によってのしあがった。映画における母親の成功物語は、チャップリン自身の立身出世物語と重ねて考えるべきである。

 ドストエフスキーの小説と異なって自伝層が映画の中で直接語られることは少ないけれども、こうしたチャップリンの自伝的要素がなければ、この映画にこれほど深い奥行きが出たかわからない。

 チャップリンは、母親の慈善活動を「善」として描くのに対し、権力による福祉行政を「悪」として描く。また、キッドの安住の地として、施設ではなく、家庭を選んだ。

 20世紀初頭、欧米の資本主義社会では、子供を育てることのできない母親は、子供を街に捨てざるをえなかった。だが、はるか昔、ルネッサンスの時代のフィレンツェにはオスペダアレ・デリ・インノチェンティ(捨て子養育院)があったのである。

「このオスペダアレ・デリ・インノチェンティを見たときに、ぼくは本当に驚いた。この建築がどうしてこんなに美しいのか、と、いろいろ考えてみると、それは、平等の愛すべき幼児のなかに私生児などという差別をする残酷な社会、社会の責任を幼児に負わせるような時代とたたかう新しい時代、新しい社会の美しさです。家庭の子供にはあのように美しい階段はいらないのです。家庭があるかぎり、建築芸術の必要はない。家族が解決することができない問題を、建築芸術が解決するのだ。不幸な母親が川に身を投げる代わりにあの階段を上がって行くように美しい階段でなければならない。川に身を投げるよりもこの階段を上がっていこうというのは、よほど美しい階段でないと、川のほうへ行ってしまうのです。」
(羽仁五郎「都市の論理」)


オスペダアレ・デリ・インノチェンティ

 上の写真は、オスペダアレ・デリ・インノチェンティ。羽仁五郎の言葉にのせられたのか、私はフィレンツェでこの建物をみて、感動のあまり立ちつくしてしまった。こうした施設があれば、母親はキッドをここに託したはずである。

 現代日本、徳島にできた赤ちゃんポストに対し賛否さまざまの意見があるようであるが、子供を捨てざるを得ない母親がいるかぎり、捨てられる子供を救うことを第一に考えるべきだと思う。
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まいじょ * 映画 * 09:23 * comments(2) * trackbacks(0)

亀山郁夫「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」

 「カラマーゾフの兄弟」の新訳を出した亀山郁夫さんの「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」を面白く読ませていただいた。ドストエフスキーの頭の中にあった「カラマーゾフの兄弟」の第二部は、この本で亀山さんが描き出したものにかなり近いものではなかったかと思う。

 この本や「カラマーゾフの兄弟」第5巻に収められた解題の中で、亀山さんが用いるのが、ドストエフスキーの小説世界を、象徴層、自伝層、物語層という上中下の三層構造として捉えるアプローチである。

三層構造

 下の「物語層」とは、小説全体を駆動させていく物語レベル(筋書き、心理的なメロドラマ)の層である。この小説の中心となる物語は、カラマーゾフ家の主人フョードルの殺害事件をめぐる「犯人探し」であり、全体として一大ミステリーのようでもある。

 上の「象徴層」とは、形而上的な「ドラマ化された世界観」とでも呼ぶべき世界である。神と悪魔、善と悪といった象徴レベルでの葛藤の物語である。

 象徴層における葛藤が、物語=現実的なレベルと照応するというのは、ドストエフスキーに限ったものではないし、他の作家にもみられるわかりやすいしかけである。だが、「カラマーゾフの兄弟」には、この二つの層のほかに、もう一つ別の層、すなわち一般読者には見えにくい、一読しただけでは理解できない層があるという。これを亀山さんは「自伝層」と呼び、作者=ドストエフスキーが自らの個人的な体験をひそかに露出した部分であるという。

 そうした解説を読み、またドストエフスキーの生涯をふりかえってから、あらためて「カラマーゾフの兄弟」を読みかえすと、たしかに一読しただけでは見過ごしがちな「自伝層」が浮かび上がってくる。そこに秘められたドストエフスキーの魂からの叫びがはっきりと聞こえてくる。

 若き日のドストエフスキーは、ペトラシェフスキーの会という革命組織に参加したため帝政ロシアの秘密警察に逮捕され、銃殺刑の執行直前に恩赦となり、しばらくシベリア送りになるという強烈な体験があり、のちに「改心」して保守派となったのちも厳しい監視下におかれていた。

 だが、ドストエフスキーに「改心」はなかった、「改心」を演じつつづける自分に、作者自身気づかないほど熱中してきたのだという。

 亀山さんは、自伝層に着目しつつ「カラマーゾフの兄弟」続編にこめられたであろうドストエフスキーの思いを次のように総括する。

「わたしは、かつて皇帝暗殺をよしとしていた。もし、皇帝暗殺がいつか実現するとすれば、それはわたしにも責任がある−−。


 そういえば池内紀「カフカの生涯」を読んでから、あらためて池内紀による新訳「カフカ小説全集」を読んだときに、作者=カフカの心の叫びに気づいて、はっとしたことがあり、今となってはそれも自伝層の発見ではなかったかと思う。
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まいじょ * * 11:56 * comments(2) * trackbacks(0)

劇団民藝公演「白バラの祈り」

 劇団民芸公演「白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々」を紀伊国屋サザンシアターで観て来た。

2007年劇団民藝公演『白バラの祈り』

 第二次世界大戦中のドイツでナチスの暴政に反旗を翻したミュンヘン大学の学生グループ。彼らは同じドイツ人でありながら、ナチ政権を倒すために「白バラ」と記された反戦ビラを秘密裏に配布する。
 1943年、ついにゲシュタポに逮捕された学生たちの尋問にあたるモーアは、若い女性ゾフーに偽りの告白をさせようとする。しかし、彼女は毅然として拒否するのだった...。

 映画(「白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々」)が完全に時系列な構成で、ゾフィーのみに焦点を絞っていたのに対し、演劇は最期の5日>間を中心としつつも、時折フラッシュバックで過去のシーンを挿入したり、同じ舞台を複数の場に分けて、兄ハンスや他の男子学生の取り調べの様子を描いたりして、ポリフォニー(多声)的に描いていた。
 映画版がわりと演劇的な構成だったのに対して、演劇版の方がより映画的な構成を試みて、それぞれかなり成功したように思う。

 この劇の中で最も印象に残ったのは、ゾフィー(桜井明美)の次のセリフだ。
「 一番おそろしいのは、何とか生き延びようと流れに任せている何百万という人達です。唯々そっとしておいて欲しい、何か大きなもの自分達の小さな幸せを壊されたくない、そう願って身を縮めて生きている、一見正直な人達です。自分の影に怯え、自分の持っている力を発揮しようとしない人達。波風を立て、敵を作ることを恐れている人達」


●スタッフ
作:リリアン・グローグ
訳:吉原豊司
演出:高橋清祐
●キャスト
ゾフィー・ショル(女子大生):桜井明美
ロベルト・モーア(ゲシュタポの尋問官):西川 明
アントン・マーラー(ゲシュタポの捜査員):三浦 威
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まいじょ * ステージ * 23:55 * comments(2) * trackbacks(9)

キッド

 チャップリンが、捨て子の赤ちゃんを拾ってしまうところから、物語は始まる。赤ん坊を手放そうとあの手この手を尽くすが、どうしてもうまくいかない。途方に暮れて、路端の排水口をみつめるところで、まるで悪魔のささやきが聞こえるようだ。だが、次の瞬間、神の導きでもあったのか、赤ちゃんの母親の「この子をよろしく」という手紙を読んで、めざめたチャップリン。
キッド
 男手ひとつで子供を育てたチャップリンの苦労は、ほんのわずかしか語られない。しかし、その子に深い愛情が注がれたことは、成長した子供とチャップリンの貧しくても幸せな、ほのぼのとした生活ぶりを見ればよくわかる。
 だが、子供が病気になったことをきっかけに、互いに不可欠の二人の仲は引き裂かれてしまう。ここがこの映画のクライマックス、最も涙をさそうところである。

 キリスト教は、この映画に一貫して流れるテーマである。
十字架を背負うキリスト
 母親が赤ちゃんを置き去りにしたあと、十字架を背負ったキリスト像が一瞬だけ現れる。罪を負うた彼女は、成功を収めたのち、慈善活動に身をつくす。聖なる母となる。
 子供のけんかが発端でチャップリンが暴力沙汰に巻き込まれたとき、聖なる母がけんかの両者をいさめて言う言葉。
人もし 汝の右の頬を打たば 左の頬を出せ

 現実から突然移行した、まるで天国のような「夢の国」。天国の門の鍵をあずかるペテロが居眠りをしたために、悪魔がたやすく「夢の国」にはいりこむ。平和に暮らしていた人々をそそのかし、誘惑させ、うぶにさせ、嫉妬させたために、「夢の国」にいさかいが始まる。
夢の国
 初めて観たとき、この「夢の国」のシークエンスは、よけいではないかと思った。だが、ここを省いた場合を想像すると、どうにも収まりが悪いのである。

 そもそも、「キッド」に無駄なシーンなどあるはずもない。この映画で撮影に使われたフィルムは、実際に映画に使われた量のなんと53倍だという。撮影しながらプロットを変えていくことの多いチャップリンの作品の中でもひときわ高いNG率となっている。
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まいじょ * 映画 * 01:31 * comments(2) * trackbacks(5)

ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」

 日曜日(10月14日)、NHKのETV特集で「21世紀のドストエフスキー〜テロの時代を読み解く〜」という番組をやっていた。「カラマーゾフの兄弟」の新訳で今評判の亀山郁夫(東京外国語大学学長)がナビゲーター役で、金原ひとみ、森達也、加賀乙彦、ボリス・アクーニンがコメンテーターとして、ドストエフスキーの現代における意義は何かを問うた番組である。

カラマーゾフの兄弟

 私は、先週ちょうど、亀山訳の「カラマーゾフの兄弟」を読了したばかりだったので、出演者それぞれのコメントがずしりと重く心に響いた。

 実は、私はこれまで3回もカラマーゾフを読もうとして途中で投げ出した人間である。いちおう別の訳者によるものをつなげて1年以上かけて全編を読んだことはあるが、だいたい宗教の話が長く続くとそこで読む気がうせてしまった。
 「とにかく最後まで一気に読ませる」ことをめざした亀山さんのねらいは、私には見事にあたった。読み出すと、最後まで読みたくてやめられないのである。宗教上の問題など、多少意味がとりにくいところもあったが、読みたいという一心で最後まで一息に読んでしまった。

 番組の中で、亀山さんは「カラマーゾフの兄弟」を翻訳できたことの喜びを本当にうれしそうに語っていた。
 非常に単純な言い方をすると「生きていて良かった」というひと言なんですね。この小説を翻訳できたということは、おそらくドストエフスキー以外の第三者の中では最高の快楽を味わえた、最高の喜びを味わえたという、そのひと言しかないんですね。それくらい喜びを与えてくれる小説なので、言葉がないとしかいいようがない。

 私は亀山さんの翻訳ではじめて全編を通読できた喜びをひとしおに感じた。読む前と読んだ後で、大げさにいえば世界観が変わり、生きることの喜びを感じたのである。

 番組では、映画「カラマーゾフの兄弟」(1968年 ソ連 イワン・プィリエフ監督)のさわりを補足映像として挿入していた。登場人物の顔のイメージが、想像していたものとかなり近いものもあれば、ずいぶんかけ離れたものもある。これだけの長編小説だと、映画で再現はあまり期待しない方がいいと思う。しかし、登場人物や舞台の視覚的イメージを補足にするには、映画は有効な手段だろう。DVDがあればさっそく観てみたい。

左からドミートリー、イワン、アリョーシャのカラマーゾフ兄弟
ドミートリー   イワン   アリョーシャ

父・フョードル(左)と下男・スメルジャコフ(右)
フョードル   スメルジャコフ

 登場人物の中でいちばん誰に近いと思うかと妻に訊かれて、私は即座に「アリョーシャ!」と答えたが、妻は私が似ているのはドミートリーだと言い張っている。私も心の中では、「イワン!」と気取りたいところだが、イワンに影響されたスメルジャコフも通ずるところ大である。
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まいじょ * * 19:08 * comments(5) * trackbacks(0)

チャップリンの犬の生活

 「犬の生活」は、チャップリンが世界の喜劇王としてゆるぎない地位を得たファースト・ナショナル時代、自らの名前を冠した撮影所で作った最初の作品である。のちのユナイテッド・アーティスツ時代の代表作「街の灯」や「モダン・タイムス」の原型となるような笑いとペーソスを含んでおり、短編としての完成度はきわめて高い。

チャップリンの犬の生活

 驚いたのは、助演俳優ともいえる犬とそれを襲う群れ犬たちの乱闘シーンである。チャップリンは、のちに相棒となる犬を助けに入り、大勢の犬たちに追いかけられ、お尻にかみつかれたり、ひどい目にあうのだが、特撮もない時代によくあんな映像が撮れたものだ。どうやって、犬に演技指導したのだろうか。
 この映画には、日本人もかげで貢献している。1916年、この映画を作った頃、チャップリンに運転手として雇われ、のちに秘書となる高野虎市である。

『犬の生活』撮影中に、犬に対しても演技指導が厳しく、そのせいで犬が死んでしまったそうです。チャップリンは高野に同じ犬を探してこいと無理難題をふっかけました。やっと見つけて来た犬は、背格好は同じですが、目の周りの班がありません。そこで、高野は犬の顔にメイクをして班を描いたそうです。そのとき犬に何度も噛まれ、高野は「わしゃ、往生したぜ」と言っていたとのこと
大野裕之「チャップリン なぜ世界中が笑えるのか」


 チャップリンと愛犬が屋台の食べ物を盗み食いするシーンも傑作だ。チャップリンを疑う屋台の主人(シド・チャップリン)とそしらぬふりで盗み食いを続けるチャップリンの掛け合いは、互いに兄弟だからこそのものかもしれない。真似たくなるギャグなので、同じようなコントはテレビなどで何度も観たが、このオリジナルには到底かなうはずもない。
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まいじょ * 映画 * 23:57 * comments(1) * trackbacks(0)

昼下りの情事

 その年の映画の「最も素晴らしいタイトル」を表彰する「ゴールデンタイトル・アワード」の提唱者で映画大使の筑紫哲也さんが、過去の公開作品の中では、この「昼下りの情事」が名タイトルのグランプリではないかと言っている。(「筑紫哲也の緩急自在」07.07.04 アスパラ・クラブ

昼下りの情事

 原題は "Love in the Afternoon" だから、直訳すれば「午後の恋」だろうか、それを「昼下りの情事」としたところが絶妙なところだ。日活ロマンポルノに「団地妻 昼下りの情事」という名作(?)があるが、タイトルだけはこの映画のパクリである。

 私立探偵の娘オードリー・ヘプバーンは、中年プレイボーイのゲイリー・クーパーの素性を百も承知の上で出会ったのだが、いつもの手口でクーパーが供する豪華なルームサービスや「魅惑のワルツ」を奏でるバンドの音楽に魅せられ、あっという間に恋におちてしまう。数ヶ月後再会したヘプバーンは、生娘と悟られないために自分もプレイガールを演じるが、クーパーはそんなヘプバーンに魅せられ、本気の恋におちてしまうのだ。

 この映画のクーパーが適役かどうか評価が分かれるところだ。ワイルダー監督は、本当はケイリー・グラントにご執心で、この映画でもオファーしたが承諾がもらえなかったらしい。だが、監督は、実生活でも「無口」なクーパーが、女性の一言一句に耳を傾け、それが女性を魅了するところを目の当たりにして、クーパーがはまり役だったと感じたらしい。

 そういえば、村上春樹の小説に出てくる中年おばさんも女の子とうまくやる方法はみっつしかないと言っていた。
「ひとつ、相手の話を黙って聞いてやること。ふたつ、着ている服をほめること、三つ、できるだけおいしいものを食べさせること。」

 私が飲み屋で中年おばさんにもてるのは、本当につまらない話を黙って聞いているから、少なくとも聞いているふりをしているからだと思う。

 ラストシーン、駅でクーパーを見送るヘプバーン、動き出す汽車、せつない別れ。追いかける女、それを抱えあげる男。本当に名シーンだ。
 ワイルダーは、ウィリアム・ワイラー監督にこの映画についての意見を訊いた。「ウィリーはわたしの友達で、本音を聞かせてくれた。「最後のシーンで、オードリー・ヘップバーンはクーパーに話しかけるべきじゃないと思う。黙って列車といっしょに話しかけるべきだ」と言ったよ。そのとおりだな。でも、どうしようもなかったんだ。彼女の唇は動いていたし、パリにもどって撮り直すわけにもいかなかった。」




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まいじょ * 映画 * 00:50 * comments(2) * trackbacks(2)

ブログ再開!

 しばらく放置していたこのブログを再開することにした。皆さん、どうか、またよろしくお願いする。

猫と少女

 書き込みを中断したのに特に理由があった訳ではない。また書き込みを再開するのに特に理由がある訳でもない。「である調」に文体を変えたのも、特に理由がある訳ではない。
 ただ、この間何もなかった訳ではないので、少し近況を報告しよう。

●仕事関係
 4月に職場が異動となり、担当する再開発のプロジェクトが変わり、職責も少し重くなった。9月にはパートナーとなる民間事業者も決定し、1000億円超のビッグ・プロジェクトがスタートすることになった。この半年間、権利者対応も順調にすすみ、どんなに忙しかったり、苦労があっても、好きな仕事なのでまったくストレスは感じない。

●映画関係
 映画館に足を運ぶことはめったにない。ほとんどはハードディスクやDVDにとりためた映画を週2,3本のペースで観ている。基本的には名画の定評があるクラシック映画が好きだが、最近の映画(公開後わずか1年くらいでWOWOWなどで放映される)もまったく観ないわけではない。昨日DVDで観た「フラガール」、邦画にも少し期待が持てた。

●音楽関係
 CD購入は一時よりずっとローペースになって平均月1枚くらい。今、Sylvia Tellesという今はなきブラジルの女性歌手のCDを買い漁っている(入手困難)。
 また1、2ヶ月に一度はコンサートに行くようにしている。ここ数ヶ月で最も印象に残るのは、昨年12月のチョウ・ミョウフンがチェンバロ弾き振りで行ったコンサート形式の「イドメネオ」かな。

●旅行関係
 今年になってから、1月に下関・広島、2月に兵庫・岡山、そして7〜8月にスペインといろいろ旅行はした。上の写真は、スペインのアルハンブラ宮殿で撮ったものだ。
 先日、スペイン旅行の報告を仕事仲間にしたが、この際せっかくだから、旅の思い出をこのブログに「不定期連載」としてアップしながら、記録をまとめることにしよう。

●健康関係
 健診の結果メタボ予備軍と判定され、数年前から下腹のでっぱりが気になっていたこともあって、対策をとることにした。まず始めたのがダンベル体操だが、飲んべの私には毎日続けることはできない。歩数計をつけての計測。これは、毎日の運動量が意識できて、とてもいい。昼休みの10分早歩き。外食のついでに、これを励行しようと思う。
 そして、なんと今日、フィットネスクラブに入会してしまった。これについてはあらためて書くことにする。
まいじょ * ノンセクション * 22:58 * comments(0) * trackbacks(0)
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