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ラウンダーズ

 マット・デイモンが、賭けポーカーにのめりこんで行く法科大学生を演じる、サスペンスドラマです。

ラウンダーズ

 ポーカーは、数ある賭けゲームの中でも最も頭を使うものの一つであり、相手の表情やしぐさで手の内を読みとり、相手には「ポーカー・フェイス」でこちらの手の内を明かさないようにする心理戦が特徴です。弱い手でも、「ブラフ」によって、強い手の相手を負かすことができるのも、ポーカーの面白いところです。

 私は今はギャンブルはまったくやりませんが、若い頃は、麻雀、パチンコ、ポーカーとひととおりの賭け事には手を染めました。だから大負けして「もう二度とやらない」と誓いながら、再び手を出してしまうマット・デイモンの気持ちはよくわかります。

 マット・デイモンの旧友のどうしようもない男を、エドワード・ノートンがやっています。ノートンが、イカサマを見破られたときの顔は、まるで「真実の行方」で、可愛い顔して本当にズルイ奴です。

 映画の圧巻は、かつて大負けしたロシア・マフィアにつながりのある男KGB(ジョン・マルコヴィッチ)にリベンジを挑むシーンです。「テキサスホールデム」というのでしょうか、私たちにはなじみのないルールですが、観ていて本当にはらはらどきどきしました。

 マット・デイモンは、「グッド・ウィル・ハンティング」でもそうでしたが、こういう愚かな人生の選択をしてしまう天才の役がはまっています。
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まいじょ * 映画 * 00:01 * comments(2) * trackbacks(0)

雨に唄えば

 ジーン・ケリー主演のダンス・ミュージカル。いかにもMGMらしいエンターテインメント作品ですが、映画界の内幕をばらす脚本がよくできています。ミュージカルが嫌いという人も、この映画は観られるかもしれません。

雨に唄えば

 1927年、世界初のトーキー映画「ジャズ・シンガー」が生まれた頃のハリウッド。ジーン・ケリーは、サイレント時代のスター映画俳優でした。街でファンに取り囲まれてパニックになっていたところを、たまたま通りかかったデビー・レイノルズの車に飛び乗って助かります。

 レイノルズは舞台女優の卵ですが、映画にはまったく興味がなく、大スターのケリーの顔も知りませんでした。映画と演劇、住んでいる世界の違う二人は、さっそくけんかになります。
「映画は人気あるけど、登場人物はみんな退屈。ただのパントマイムよ」
「僕のは演技じゃないってこと?」
「そうよ。舞台の演技は優れたセリフまわしと荘厳な言葉...。舞台俳優は尊敬される仕事よ。でもあなたは、フィルムに映るただの影。中身なんてない」

 ケリーは、レイノルズの辛辣な言葉に腹をたてたものの、ずきりとくるものがありました。サイレント時代、セリフのない俳優の演技は、たしかにパントマイムのようなものだったのです。現に、ケリーと共演する女優ジーン・ヘイゲンなんか、美人というだけで、ひどい声のため人前で話すこともできないようなバカ女だったのです。

 再会したケリーとレイノルズは、すぐに仲直りします。レイノルズと親しくなれたことがよほどうれしかったのでしょう。ケリーはどしゃ降りの中を踊りだします。
ジーン・ケリー
雨に唄えば それだけで
最高の気分 ハッピーになれる
空を覆う暗い雲を 笑い飛ばそう
心に太陽が輝き 恋が始まる
雲がわきあがり 道からみんな追い払う
どんなに降っても 僕は笑顔のまま
陽気に唄いながら 街を歩こう 
どしゃ降りの中を 唄いながら


 ジーン・ケリー、本当に素晴らしいダンサーです。

 映画のトーキーへの移行は急でした。ケリーとヘイゲンの初トーキー作品が作られますが、試写会の評判は惨憺たるもの。急遽、ミュージカル仕立てで撮り直すこととなり、ヘイゲンの吹き替えをレイノルズがやることになりました。

 リメイクした作品は大好評でした。吹き替えのレイノルズの声に魅了された観客の前で、あのヘイゲンが舞台挨拶し、大ブーイングを浴びます。「挨拶よりも歌を聴かせろ!」のリクエストに応えて、急遽、舞台裏で歌うレイノルズに合わせて口パクで誤魔化そうとしますが...
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まいじょ * 映画 * 17:17 * comments(6) * trackbacks(11)

紅いコーリャン

 1987年、当時35歳のチャン・イーモウ(張藝謀)の、監督デビュー作。鮮やかな色彩の映像で、中国の美しい自然と民衆の素朴な生活を描いてきたイーモウ監督の原点ともいえる作品です。

チアン・ウェンとコン・リー

 1920年代の中国山東省。貧しい家に生まれたコン・リー(鞏俐)は、いやいやながら造り酒屋の主人でハンセン氏病にかかっている老人のところに嫁入りします。里帰りの道中、コーリャン畑で粗野な青年チアン・ウェン(姜文)に強姦されます。

 再び造り酒屋に戻ると、留守中に主人は何者かに殺されていて、コン・リーは若くして未亡人となってしまいます。

 そんな彼女を見限って、出て行こうとする使用人たちをこういって引き止めます。

「皆待って。この酒造りはやめるわけにはいかないわ。皆の手助けがないとやれません。私は皆と同じ貧乏人よ。おかみさんと呼ぶはやめて。酒造りに上下はないわ。」

 やがて使用人たちの信頼も得て、強引に家に入り込んできたチアン・ウェンも主人代わりとなって酒造りに精を出し、平和な日々が過ぎていきます。

 そこに現れたのが中国を侵略した日本軍。民衆を動員してコーリャン畑を踏みつぶし、日本軍に抵抗する匪賊の首領や共産党の指導者を、見せしめのため、残虐な「皮はぎ」の刑で殺すなど、非道の限りを尽くします。それを目の前で見たチアン・ウェンとコン・リーたち、造り酒屋の使用人も一丸となって、復讐に立ち上がります。

紅いコーリャン

 この映画では、さまざまな場面で、赤いコーリャン酒が振舞われます。大きなどんぶりのような盃になみなみと注がれたコーリャン酒をがぶがぶと飲み干していくシーンが何度も出てきました。

 コーリャン酒がどんなものか知りたくて、長春(旧満州国の首都・新京)に行ったとき、コーリャン酒を注文しました(私がふだん飲んでいるものを知っている同行した中国の人からは、やめた方がいいと忠告されましたが...)。アルコール度数が高く、匂いもきつくて、コップ1杯すら飲み干すことができませんでした。
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まいじょ * 映画 * 18:13 * comments(3) * trackbacks(1)

ニノチカ

 サイレント時代からの女優グレタ・ガルボの初トーキー映画(「アンナ・クリスティ」)は“ガルボが喋る!”が宣伝文句でしたが、この「ニノチカ」は“ガルボが笑う!”がキャッチ・コピーとなりました。

ニノチカ

 舞台は1930年代頃のパリ。ガルボが演じるのは、ソビエトからやってきた鉄のようなキャリア・ウーマン、ニノチカ。彼女は、社会主義の理想を信じ、資本主義の何もかもを軽蔑の目で見ています。

 ニノチカの目の前に現れたのが、資本主義の贅沢や堕落の申し子のようなレオン(メルヴィン・ダグラス)。彼は怪しい男爵で、フランスに亡命したロシア帝国のスワナ大公妃(アイナ・クレア)の愛人で、贅沢な暮らしをしています。

 正反対の二人が出会ってまもなく恋におちるのですから、不思議なものです。ガルボは、最初にその帽子を見たときは「あんなものをかぶるような文化は滅びる」というほど嫌悪した、変てこな帽子を買ってしまいます。レオンの方も、まったく似合わないマルクスの「資本論」を買って読むなど、恋の相手に少しでも近づこうとします。

 帽子は、この映画では象徴的な役割を果たしています。ニノチカの帽子もそうですが、
古い帽子新しい帽子
ソビエトの3人男が、国から持ってきた野暮ったい帽子を、レオンから贅沢三昧を教わったとたんに、ヨーロッパ紳士風の帽子に換えたのも、資本主義に染まったことを見事に表していました。

 ニノチカは、宝石の権利をめぐってスワナ大公妃と対立しますが、この二人はレオンをめぐっても対立し、女の闘いとなります。
「あなたが奪ったのよ、私の皇帝も国も国民も、私の全てを。でもこれ以上は許さない」
「国民は奪えないわ。1億人だろうと、たった1人だろうと。彼らを愛していなければね」


 スワナ大公妃の謀略により、奪われた宝石の権利を取り戻す代わりに、ニノチカはレオンと別れてソビエトに帰ることとなりました。ニノチカとレオンの恋はこれで断ち切られたと思ったのですが、最後にうれしい場面が用意されていました。

 この映画にちりばめられたほくそ笑むようなギャグや、全てを説明しないで分からせてしまう撮り方をルビッチ・タッチというのでしょうか。チャールズ・ブラケットビリー・ワイルダーほかの共同脚本も見事というほかありません。引用したいセリフはたくさんあるのですが、きりがないのでやめておきます。
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まいじょ * 映画 * 22:32 * comments(3) * trackbacks(6)

ニュー・シネマ・パラダイス

 映画が全盛だった頃のイタリアの映画館を舞台に、映画をこよなく愛する人々の姿を描いたヒューマンドラマです。

ニュー・シネマ・パラダイス

イタリアでは...約5,800万人の人口に対してスクリーン数約6,400。日本の約2,900に比べ圧倒的に豊富な映画施設...小さな町でも教会の隣などに映画館があり、社交場にもなっている」(『朝日新聞』2006年9月11日付夕刊「アモーレ!チネマ」)


 舞台は、シチリアの小さな村。当時、村の人々の唯一の娯楽は映画であり、サルヴァトーレ(愛称トト)も映画大好き少年だった。父親のいないサルヴァトーレは、映写技師のアルフレード(フィリップ・ノワレ)を慕って映画館に通いつめ、子供のいないアルフレードも、サルヴァトーレをわが子のように可愛がります。

 やがて見よう見まねで映写技術をマスターしてしまった少年サルヴァトーレ。ある日、フィルムの発火による火災が原因でアルフレードは失明し、サルヴァトーレは後任の映写技師に雇われます。でも、アルフレードは忠告します。
これはお前のやるべき仕事ではない。お前には他の仕事が待ってる。別の仕事だ。重要な仕事だ

 アルフレードは、サルヴァトーレの非凡な才能に気づいて、村を出ていくように強くすすめたのです。
帰って来るな。私たちを忘れろ。手紙も書くな。郷愁(ノスタルジー)に惑わされるな。

 最愛のサルヴァトーレのために、自分を含めて故郷の思い出をすべて断ち切れと迫るつらさ...

 それから30年、サルヴァトーレは一度も故郷に帰らず、有名な映画監督となっていました。アルフレードの見抜いた才能はやはり開花していたのです。
 経済的には何不自由ない生活。でも、精神的には、青春時代に別れた恋人をずっと引きずって、満たされていなかったのかもしれません。30年間、顔を合わせなかった母は、そんな息子を鋭く見抜きます。
お前に電話するといつもちがう女性が出る。でもお前を心から愛してる声をまだ聞いてない。聞けば私には分かる。お前がだれかを愛して落ち着いてくれれば嬉しいよ。

 ラストシーン、アルフレードが形見として残した、検閲でカットされたキスシーンをつなげたフィルムです。それを見ながら涙するサルヴァトーレ。シチリア出身のジュゼッペ・トルナトーレ監督自身の姿かもしれません。

【Cinema Paradisoで上映されていた作品でわかったもの】
どん底(1936)ジャン・ルノワール
駅馬車(1939)ジョン・フォード
揺れる大地( 1948)ルキノ・ヴィスコンティ
無法者の掟(1948)ピエトロ・ジェルミ
にがい米(1949) ジュゼッペ・デ・サンティス
青春群像(1953)フェデリコ・フェリーニ
素直な悪女(1956)ロジェ・ヴァディム
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まいじょ * 映画 * 17:34 * comments(8) * trackbacks(9)

カサブランカ

 「君の瞳に乾杯!」など数々の名セリフで知られる、ハンフリー・ボガートイングリッド・バーグマンの超有名メロドラマです。

カサブランカ

 舞台は、1942年頃のモロッコのカサブランカ。当時のヨーロッパは、ナチス・ドイツがまだ優勢を誇っていて、フランス領だったカサブランカは、ヨーロッパ各地からナチスによる難を逃れてアメリカを目指す人々であふれていました。
 ここでナイトクラブ「リックス・カフェ・アメリカン」を経営するのがリック(ボガート)。そこに現れたのがかつての恋人で、パリ陥落の日の前日(1940年)に突然姿を消したイルザ(バーグマン)と、その夫の反ナチ活動家ラズロ(ポール・ヘンリード)の二人です。

ハンフリー・ボガート

 あらためてみると、映画の途中までのボガートは、店のピアニストにバーグマンとの思い出の歌「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」を演奏するのを禁じていたり、「世界に星の数ほど店はあるのに、彼女は俺の店にやってきた」と嘆いたり、酔っ払ってバーグマンに対し過去の裏切りを皮肉たっぷりに責めたり、相当に女々しい男です。それに、数えたら、「君の瞳に乾杯!」(Here's looking at you, kid)というセリフを4回も繰り返す、結構軽い、ワンパターン男です。
 それでも、クールでダンディな男というイメージが強いのは、自分を犠牲にしてバーグマン夫婦を脱出させるラストシーンが強烈な印象を残したからでしょう。

 この映画のバーグマンの、二人の男への愛に苦悩する姿は、本当に魅力的です。この映画の彼女に勝る美形の女優はいないと思います。
 バーグマンは写真集のインタビューで、「結末が分からないまま撮影してて、ラズロと一緒になるのかリックと一緒になるのかシナリオができていなかった」と言っているんですね。演技プランが立たないから、二人のうちどっちを好きなのか、監督にしきりに結末を聞いたんだけど、監督も分からないから中間で演じてくれと言われて嫌だったって。結局、ラズロと一緒に行くバージョンを撮ったら、これしかないということになって、もう一つは撮らなかったんだそうです。でも『ギネス・ブック・オブ・ムービー・ファクツ・アンド・フィーツ』という本には、「『カサブランカ』は結末までシナリオが書かれないまま撮影したというのが俗説になっているけど、実はそうではない。ちゃんと書かれていたけど、監督はわざとバーグマンには教えなかった」って書いてありました。(和田誠ほか『これもまた別な話』)


 次のセリフも有名ですね。
「昨日はどこにいたの?」
「そんな昔のことは覚えていない」
「今夜会える?」
「そんなに先のことは分からない」

 このセリフは、バーグマンとボガートの会話ではありません。ボガートに惚れている酔っ払い女との会話でした。

 最後に面白いエピソードとして、ボガートがやったリックの役をロナルド・レーガン(のちのアメリカ大統領)がやる話もあったようです。でも、「カサブランカ」のためには、レーガンがやらなくて本当によかったです。
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まいじょ * 映画 * 00:47 * comments(13) * trackbacks(11)

古井戸

 チャイニーズ・ニューシネマの先駆けともなった作品で、監督は、ウー・ティエンミン(呉天明)。チャン・イーモウ(張藝謀)やチェン・カイコー(陳凱歌)など、第五世代の監督たちの兄貴分にあたる人です。チャン・イーモウは、この映画では、主演と撮影の二役をこなしています。
死の淵
 舞台は、1980年代初頭、山西省の太行山の山奥の「老井村」。この村の井戸は枯れていて、村人は10キロも離れた井戸から毎日水を運ぶ、不便な暮らしを強いられてきました。近くに井戸を掘ろうと村人たちは何度も試みますが、犠牲者が出るだけで、水は出てきません。

 旺泉は、代々井戸堀りに携わってきた家の長男。幼馴染の利発な女の子、巧英と将来は結婚するつもりでしたが、家族のために犠牲となって、子供のいる未亡人の喜鳳の家に婿入りさせられることに。旺泉と巧英は駆け落ちを試みますが、祖父に見つかって連れ戻され、二人の仲は引き裂かれてしまいます。

隣村との対決
 隣村との水をめぐる対決シーンは、迫力がありました。きっとロケ地となった村人をエキストラとして起用したのでしょうが、この手の人海作戦は中国映画の醍醐味です。

喜鳳と巧英
 井戸を掘ることへの挑戦を縦糸とすれば、二人の女・巧英と喜鳳が一人の男・旺泉をめぐってひそかに争う三角関係を横糸として物語は展開していきます。

 ある日、のどが渇いた旺泉は、巧英から水を分けてもらいましたが、その水の中に草わらをふりかけられ、それで旺泉はすっかり彼女に嫌われたものだと思っていました。しかし、後日、その訳を知ります。
「俺は嫌な男だろ。お情けでくれた水にも草をふりかけられた」
「大した考えね。どうかしてるわ。あんなにのど渇いて急に飲めば、内蔵がアウトでしょ」

 嫌われた訳ではなかった、彼女は今でも...と思うと、旺泉の頬は自然とゆるみます。

 旺泉を愛する二人の女性はどちらも悪くないし、両方とも可哀想で、私たちの同情をひきます。そこが、この映画のすごいところです。

 20年以上前とはいえ、この映画が描いた中国・山間部の暮らしは今もそう大きく変わっていないことと思います。市場経済が浸透したために、沿岸部の都市の豊かさと山間部の農村の貧しさのギャップは、ますます広がっているでしょう。山間部にもっと目を向けようという監督の思いは、その後チャン・イーモウなど第五世代の監督に確実に受け継がれていると思います。

 俳優としてのチャン・イーモウも、なかなか魅力的です。寡黙で実直なところは、どこか高倉健を彷彿させるものがありました。
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まいじょ * 映画 * 00:25 * comments(3) * trackbacks(1)

和田誠ほか「今日も映画日和」

 「超」映画マニアの3人(和田誠・川本三郎・瀬戸川猛資)が、映画について語りつくす鼎談本です。
今日も映画日和

 『タイタニック』を観て特撮技術の進歩を語る、なんてことなら誰でもできるけれど、『タイタニック』をきっかけに古今東西の海難映画を洗いざらい思い出して、ああでもないこうでもないと何時間もしゃべるとすれば、それぞれが相当数多く映画を観ていなくてはなりません。しかも評判になった作品ばかりでなく、映画史に残りそうにない映画も観ている必要がある。三人はその条件を満たしていた。少なくとも補い合うことができた。
(「まえがき」和田誠)


 少し前に、私は『タイタニック』の特撮技術について書いちゃったので、冷や汗が出ました。

 『タイタニック』を見て“ケイト・ウィンスレットはデブだ”みたいな話は、われわれはしない。和田さんが、『タイタニック』といえばケネス・モアの出た『SOSタイタニック』があったなあと、五〇年代のイギリス映画を思い出す。ミステリ好きの瀬戸川さんが、あの映画の脚本を書いたのはエリック・アンブラーですとすぐに応じる。そして話は、海洋パニックものへと広がり、いまや忘れられたアンドリュー・L・ストーンの『最後の航海』のことになる。
(「あとがき」川本三郎)


 確かに“ケイト・ウィンスレットはデブだ”という発言は、会話でもブログでも蔓延していました。みんなが話すような低次元のことは話さない、という暗黙のルールでもあるかのように、次から次へとテンポよく映画に関する薀蓄が語られていくと、とてもこの3人の仲間には入れそうもないな、と思いました。

 もうひとつ感じたことは、映画が作られた時代に見ることの重要性です。いわゆる黄金期の映画を、公開された時代に見てきた3人がうらやましいです。残念ながら、私たちはクラシック映画を同時代のものとして見ることはできません。でも、歴史のどの部分が映画にとりあげられているか、その時期にその映画が作れられたことは、歴史の中でどういう意味があったのか、そういうことを考えてみるかどうかによって、映画の楽しみ方が大きく変わるように思います。
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まいじょ * * 00:45 * comments(1) * trackbacks(0)
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