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「アルベルト・シュペーア」序説

 今日amazonに注文してあった「ヒトラーの建築家 アルベルト・シュペーア DVD-BOX」が届きました。感想は、この3連休を利用して5枚組の膨大な映像を全部観てからあらためてアップすることにしますが、私がなぜアルベルト・シュペーアに関心を持つようになったかのいきさつを簡単にお話しておきたいと思います。

 シュペーアは、ヒトラーという世紀のパトロンを得て、絶大な権力を背景に、奔放に腕をふるう自由を手に入れた建築家で、ヒトラー政権で最年少の閣僚にまでなった人物です。しかし、戦後の裁判で、彼は戦犯として裁かれ、20年の禁固刑を言い渡されました。これが、ヒトラーという狂気のパトロンをつかみ、好まずして権力にまきこまれていった建築家を待ち受けていた運命だったのです。

 私は建築を学び、現在は都市計画の仕事をしています。建築家という職業のプロフェッションとしての性格は、私の長年の研究課題の一つであり、特に建築家が権力に対峙したときの葛藤やジレンマは最も興味深いテーマです。
 
 シュペーアの自叙伝を読んだときは、私の関心にぴったりだったこともあって、大喜びでした。

「大仕事をやらせてもらえるなら、ファウストみたいに魂を売ってもよいという気持ちだった。そういうところへ、私のメフィストが現れたのである。彼はゲーテのそれに劣らず魅惑的だった」
アルベルト シュペーア「第三帝国の神殿にて ナチス軍需相の証言」

 私は、ある建築雑誌に「シュペール――権力にまきこまれた建築家の悲劇」という原稿を書いたこともあります。

 さて、そんなことも忘れかけていた数年前のある日、劇団民藝の事務局の人から連絡がありました。シュペーアについて書いた私の文章をたまたまインターネットの検索で見つけたのだそうです。

今度アルベルト・シュペーアを主人公にした劇をやるのですが、よろしかったら観にきませんか?


 もちろん観に行きました。2002年6月、新宿南口・紀伊國屋サザンシアターの民藝公演「アルベルト・シュペーア」(作=デイヴィッド・エドガー、訳・演出=丹野郁弓)は、翻訳ものでもわかりやすい芝居で、特にシュペーアを演じた千葉茂則さんの鬼気迫る演技は素晴らしかったです。

 以上が、シュペーアについてのこれまでのいきさつ。さて、私のお楽しみはこれから!です。
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まいじょ * ノンセクション * 22:57 * comments(0) * trackbacks(0)

紳士協定

 エリア・カザン監督が、反ユダヤ主義(ユダヤ人差別)の本質を鋭く描いた社会派ドラマです。

 グレゴリー・ペックは、ライターで、反ユダヤ主義を暴く記事を一流雑誌から依頼されました。この難しいテーマにどう切り込むかでさんざん迷ったグレゴリー・ペックは、自分がユダヤ人だと装うことによりどういうことが起こるかを身をもって体験することにしました。

紳士協定

 彼は、原稿を依頼した出版社社長の姪で、反ユダヤ主義を記事にする発案者でもある離婚経験をもつ女性(ドロシー・マクガイア)と出会ってまもなく恋におちいり、婚約します。

 でも当時のアメリカの反ユダヤ主義は今からは考えられないほどひどいもので、ユダヤ人は一流ホテルには泊まることもできず、たとえ金があっても高級住宅地からは排斥されていました。

 上流階級出身のマクガイアは、頭では反ユダヤ主義に反対しながら、婚約者がユダヤ人を装うことによって自分や家族にもたらす悪影響を憂慮します。彼女はペックの行動を抑制しようとしますが、ペックはそんな彼女を反ユダヤ主義と同様だと非難して、ついに婚約は破棄となります。

 ペックに未練のあるマクガイアは、ペックの親友で本物のユダヤ人のジョン・ガーフィールドにペックの自分に対する非難がいかに不当であるかを訴え、その証拠として、自分が出席したパーティーでのエピソードを話します。パーティーの席で、ゲストの一人が反ユダヤ主義的な中傷の言葉をふと漏らしたのに対し、彼女がいかに憤りと怒りを感じたかを訴えるのです。
「それで、君はどうしたんだ?」
「私、あの男を軽蔑したわ。同席している人皆があの男を軽蔑したわ」
「それで、その男が言い終わったとき、君はなんて言った?」
「席を立って出て行きたかったわ。同席している人たちにはこう言いたかった。『私たち、どうしてここに座って、こんなことを許しているんでしょう?』って」
「で、その後、君はどうした?」
「そこに座っていたわ。みんな、座っていただけ。ディナーが終わってから、私気分が悪いんで失礼しますって言ったけど。それは本当だったの。今でも、全身がむかつく感じよ」
「もしも、君がその男にぴしゃりといってやったら、今でもそんなに気分が悪いだろうか?」


 このやりとりを通じて、マクガイアは悔い改め、ペックは許しを与えます。こうしてヒーローとヒロインは再び結ばれ、前にもまして深く愛し合うことになります。

 善良な意図でつくられた、とてもよくできた映画だと思います。でも、完全無欠なペックに対して、マクガイアはあまりにも俗物として描かれているところがどうも納得いきません。この二人がこの先うまくいくとはどうしても思えないのです。むしろ、ペックに横恋慕する元祖キャリア・ウーマンのセレステ・ホルムの方が、よっぽどお似合いだと思います。また映画全体の印象としても、何だか鼻持ちならないものを感じます。

 エリア・カザンもやや自嘲気味に言っています。
「この映画には上から見下ろす視点がある。この人たちには理解という恩恵が必要だと勝手に決め込んで、それを施しているようなものだ。貴人の義務(ノブレス・オブリージ)というやつだ。」
「エリア・カザン自伝」(上)
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まいじょ * 映画 * 00:57 * comments(3) * trackbacks(5)

Bebel Gilberto - Tanto Tempo

 Bebel Gilbertoの「Tanto Tempo」です。
Bebel Gilberto - Tanto Tempo
 Bebel Gilbertoは、父João Gilbertoと母Miúchaの間でニューヨークで生まれた娘です。

 11曲中7曲はBebel Gilberto自身の作品で新しい曲ですが、血筋でしょうか、どこかBossa Novaの雰囲気がただよいます。

 10曲目のBananeiraはJoao Donatoの歌でも不思議に私を惹きつけるのですが、Bebelはおそらく作者Donatoよりも正しく歌い込んでいます。

●Bebel Gilbertoのホームページ
The Official Bebel Gilberto Website
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まいじょ * 音楽 * 23:22 * comments(1) * trackbacks(0)

生きる

 たらい回し、判で押したような仕事、前例のないことはやろうとしない……、「お役所」の怠慢な仕事ぶりを描きながら、そんな組織であっても個人のやる気によってやればできるのだ、ということを示した作品です。

生きる

 主人公の志村喬は、市役所の市民課長。30年間無欠勤で役所勤めをしてきましたが、休まなかったのは、自分がいなくても誰も困らないということを知られたくなかったからという、本当にどうしようもない男です。

 不治の病のガンで余命わずかと知り、溺愛していた息子も嫁に奪われ、どうしようもない悲しみや孤独を、慣れない遊びで晴らそうとします。でも、そんなことしても空しいだけでした。

生きる - 放蕩

 そんな時、役所にうんざりして辞めていく部下の女子職員(小田切みき)と出会います。穴のあいた靴下をはく彼女に、靴下を買ってあげました。

生きる 靴下
「でも課長さん、どうしてあたしにこんな?」
「そりゃ、君の靴下に穴が」
「だって、あたしの靴下に穴が開いてたって、課長さんの足が冷たいってわけじゃないでしょ」
「いや、その、わしはただ...」
「うそ、うそ。今のはうそ。よく分かっているの。課長さんの優しい気持ちが。」

 こうしてプラトニックな援助交際みたいなものが始まりますが、彼女の若々しい「生き方」に触発されて、彼はついに変身します。
「いや、遅くはない。無理じゃない。あそこでも、やればできる。ただやる気になれば。わしにも何かできる。」

 彼は役所に戻り、住民の切実な願いに応えて、ドブ川を暗渠化して公園にするプロジェクトに文字通り命を懸けて取り組むことになります。

 公務員やこれから公務員となる人に、ぜひ観てもらいたい映画です。

 実はこの3日間のエントリーの隠れテーマは「三権分立」。「十二人の怒れる男」は司法、「スミス都へ行く」は立法、そしてこの「生きる」は行政なのでした。
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まいじょ * 映画 * 00:01 * comments(2) * trackbacks(3)

スミス都へ行く

 アメリカの国会を舞台として、政治の腐敗を告発したこの映画は、日本でも政治学や行政学の講義で題材によく使われたそうです。

スミス都へ行く

 主演のジェームズ・スチュワートは、子供のように純心な青年で、ひょんなことから上院議員となります。理想に燃える彼が、州の権力を牛耳って不正を働く悪党どもを相手に、絶望的な闘いを挑むというのが簡単なストーリーです。

 先輩のペイン議員は、スチュアートの亡き父の同志で共に権力と闘った経歴の持ち主です。しかし、今は悪党の手先となって、陰謀を暴こうとしたスチュアートに無実の罪を着せてまで、罷免しようとします。

ジェームズ・スチュワートとジーン・アーサー

 失意のスチュアートを励まし助けるのが、ジーン・アーサー演ずる女性秘書です。スチュワートって、たしかに誠実だけど鈍くさく見えるところがあります。でも、かえって、そこが母性本能をくすぐるのでしょう。

「あなたの常識的な正義感こそ、この国に必要なのよ」

 映画の圧巻は、スチュアートが倒れるまで続けた無駄に長い演説です。あんなに引っ張らなくても、ペイン議員に向かって、早く次のセリフを言えば良かったのに...

「皆さんはご存じないが、ペインさんはご存知。闘うに値する唯一の大義だと言われた。ご自分もかつて闘われた。“隣人を愛せ”という単純な掟のために。憎悪に満ちたこの世で彼はその掟を信じた。そうでしたね。ペインさん。父も僕もそれであなたを敬愛した。失われた大義のために闘い、命さえ賭けた。そして死んだ。あきらめません。」

 ペイン議員だって、こんな言葉で目が覚めるくらいなら、最初から悪党の手先になんかならなければいいのに...
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まいじょ * 映画 * 00:15 * comments(1) * trackbacks(5)

十二人の怒れる男

 アメリカの裁判がどんなものか、特に陪審員制度というものがどういうものかを最初に教えてくれた映画です。

 95分の映画うち、90分くらいが、狭い陪審員室が舞台であり、その中には12人の陪審員しか登場しません。法廷での証言はすべて陪審員の口を通して再現されます。

十二人の怒れる男

 事件は、スラムの少年による父親殺人。目撃者の証言、不確実なアリバイ、物的証拠に状況証拠と、少年の有罪は決定的かと思われました。

 最初の評決は、有罪11人:無罪1人。たった一人無罪としたのが、主演のヘンリー・フォンダ。彼は、テレビ版の試写を見て大いに気に入り、製作にまで乗り出したということです。さすがにおいしい役もらっています。知的な推理と理性的な説得によって、一人またひとりと有罪に疑問を持つ者を増やしていきます。

 敵役は、リー・J・コッブ(「波止場」のギャングのボス役)。フォンダと対照的な性格で、自分の一人息子との不仲がトラウマとなって、父親殺しの少年に対し異常なほどの憎しみを持っています。彼は少年の「殺してやる」という発言を、殺す気があったからだ主張しました。

 フォンダとコッブのやりとりです。
「やつは有罪だ。電気いすさ!」
「君は死刑執行人か?」
「その1人だ」
「君がスイッチを?」
「入れてやるさ!」
「よくそんな気持ちになれるもんだ。社会の復讐者を気取っているのか。個人的な憎しみで殺したいのか。サディストだ」
「放せ。殺してやる!」

 思わず出た「殺してやる!」のひと言で、それを聞いた11人全員が引いてしまったところが上のシーンです。

 最初にこの映画を見たとき、日本とアメリカの裁判制度の違いに驚きました。日本でもようやく裁判への市民参加が実現しますが、この機会にぜひこの映画を観ることをおすすめします。
「我々には責任がある。これが実は民主主義のすばらしい所だ...郵便で通告を受けるとみんながここへ集まって、全く知らない人間の有罪無罪を決める。この評決で私たちは損も得もない。この国が強い理由はここにある」
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まいじょ * 映画 * 14:25 * comments(8) * trackbacks(17)

ユー・ガット・メール

 「めぐり違えたら」のノーラ・エフロン監督が、トム・ハンクスメグ・ライアンを使って、古い映画を下敷きとした作品を撮りました。「街角」のリメイクですが、ストーリーはまったく違ったものになっています。

ユー・ガット・メール

 メグ・ライアンは、ニューヨークの昔ながらの街で、児童書専門店「街角の店」を母から受け継いで細々と営んでいます。そこに現れたのが、トム・ハンクス。彼は、チェーン展開する大型書店の御曹司であり、メグ・ライアンの店の目の前に新しい大型店を出店する責任者です。

 ビジネスで敵対的な関係にある二人は、現実の世界では当然対立しますが、相手が誰であるか知らないネットの世界では次第に親密になっていきます。

 面白いのは、トム・ハンクスのおじいちゃんが、昔メグ・ライアンのお母さんと少しだけ交際していたというエピソードです。
「競合店は?」
「街角の店」
「シシリアの店だ」
「誰です?」
「シシリア・ケリー 美人で一度デートした覚えが...文通だったかな」

 これ以上語られるわけではありませんが、余韻の残るセリフです。おじいちゃんにも青春時代があった。その後一代で書店を大きくしていったおじいちゃんの苦労。そんなものがしのばれます。一方で、メグ・ライアンのお母さんは、街角の本屋を子供たちに愛されるものにしていった。

 この映画が公開された頃、日本でもAOLが攻勢をかけていて、一定期間試用できるディスクを秋葉原などで配っていました。私も短時間ですが、チャットやインスタント・メッセージ(だったかな? オンライン中なら相手の画面にショート・メッセージを表示する機能)にはまった覚えがあります。
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まいじょ * 映画 * 23:30 * comments(6) * trackbacks(8)

街角

 エルンスト・ルビッチ監督の「街角」は、もとは「桃色(ピンク)の店」という邦題でした。原題(The Shop Around the Corner)を直訳すれば、「街角の店」なんでしょうけど。

 トム・ハンクスとメグ・ライアンの「ユー・ガット・メール」は、この映画の「手紙」を「Eメール」に置き換えたリメイクです。

街角/桃色の店

 舞台はブタペストのとある街角にある雑貨店。ジェームズ・スチュワートは、この店の若きチーフで、ちょっと商品の仕入れセンスの良くない老経営者を補佐しています。

 ルビッチ・タッチは随所に現れています。たとえば、前夜経営者の家で夕食をごちどうになったスチュアートに、翌朝、使い走りのペピが重曹(胸やけを抑える薬)を渡したところで、イヤミな年上の店員がからみます。
「もしや...」
「レバーの食べ過ぎだ」
「物が悪かったのか?」
「早とちりしないでくれ。みんな聞いたか? 僕はレバーの悪口を言ったか? レバーの食べ過ぎといっただけだ。それ以外はひと言も言っていない」

 何もそんなにムキになって、誤解を正そうとしなくてもよさそうなものですが、この店がかなり封建的な経営であること、スチュアートは主人に絶対的な忠誠を誓っていることがよくわかります。

 セリフのテンポのよいこと、無駄がないこと、本当によくできた脚本です。あるいは、元となった戯曲がよほど素晴らしいのかもしれません。

 新入りの女店員が、マーガレット・サラヴァン。才気あふれる二人は、ことあるごとにぶつかって、店ではいつもけんかばかりしています。

 実はこの二人、互いに相手がどんな顔かもわからずに手紙をやりとりしている文通友達(元祖メル友)なのです。手紙のやりとりだけで、二人の愛は高まり、互いに結婚さえ考えるまでになっていくのです。

 劇中の当事者はその関係を知らないのに、観客だけが知っている。そのおかしさ、「ユー・ガット・メール」も確かそうでした。
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まいじょ * 映画 * 23:42 * comments(7) * trackbacks(4)
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