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追悼 ジョアン・ジルベルト

 7月6日、ボサノバの父 ジョアン・ジルベルトが亡くなった。合掌。中原仁さんが日経新聞に書いた追悼記事を貼りつけておこう。
ジョアン・ジルベルト
ニューヨークのカーネギーホールで演奏するジョアン・ジルベルトさん(2004年6月18日)=AP
ジョアン・ジルベルトさんを悼む
孤高貫いた「ボサノバの父」 中原仁
6日に88歳で世を去ったブラジルの歌手でギタリストのジョアン・ジルベルトさん。彼がいなければ、ブラジル生まれの音楽「ボサノバ」が半世紀以上にわたって世界中で愛される日々は来なかっただろう。

ジョアンは1950年代後半、1本のギターでサンバのリズムを表現し、そこに洗練されたハーモニーを彩色した。さらに耳元で囁(ささや)きかけるような繊細な歌声と節回しを通じ、新たな音楽の表現を確立した。

その独創性に着目した作曲家アントニオ・カルロス・ジョビンが、ジョアンが歌うことを念頭に数々の楽曲を作り「新しい潮流」を意味する音楽、ボサノバが誕生した。ジョビンが作曲し、ジョアンが58年に録音した「想(おも)いあふれて」と「ジザフィナード」からボサノバの歴史が始まったとされている。

ジョアンが63年に米国のジャズサックス奏者スタン・ゲッツと共演し、ジョビンも参加したアルバム『ゲッツ/ジルベルト』から「イパネマの娘」が大ヒットし、ボサノバは海外に広まった。それ以前に、ジャズトランペット奏者のマイルス・デイビスがアルバム『クワイエット・ナイト』でジョアンのレパートリーを2曲録音したことも記憶しておきたい。

ジョアンが確立したボサノバの表現はジャズのみならずソフトロックやAORといった米国のポップス、フランスやイタリアのポップス、80年代の英国のネオアコなど、世界中の音楽に多大な影響を与えた。しかしジョアン本人はそうした風潮から距離を置き、孤高の存在であり続けてきた。

ジョアンの2人目の夫人で昨年他界した歌手のミウシャが語ってくれた言葉を紹介しよう。

「彼は音楽に対する究極のプロフェッショナルです。1曲のハーモニーを決めるために18時間ギターを弾き続けたことが何度もありました。力と霊感にあふれた音楽創造は天才的です」

めったにコンサートを行わず、私生活では外界との接触を断ち、神秘のベールに包まれていたジョアンの初来日公演が実現したのは2003年。ジョアンは50年余の音楽家人生を通じて初めて出会った日本の聴衆の集中力にいたく感動し、日本のスタッフに「この聴衆を私は数十年間、探していた」と熱く語ったという。

さらに、記録用に録音されていたライブ音源のCD化を強く希望し、翌年『ジョアン・ジルベルト・イン・トーキョー』が発売された。

その後も04年、06年に来日公演を行い、06年のコンサートを収録した映像ソフトが12年余の歳月を経て今年『ジョアン・ジルベルト ライブ・イン・トーキョー』として発売された。これが唯一の公式ライブ映像だ。

3回の来日公演の全てに足を運んだ筆者の印象をひと言で表せば、ジョアンは「究極のサンバ人」。ジョビンの名曲を歌うジョアンも素晴らしかったが、サンバの名曲を独創的な解釈で歌うときはさらにドライブ感を増し、サンバに対する愛と誇りがダイレクトに伝わってきて圧倒された。

ボサノバ誕生50周年を迎えた08年、母国のリオとサンパウロで開いた公演を最後に、彼は人前で歌うことをやめ、その11年後に帰らぬ人となってしまったが、晩年の日々に出会った日本の聴衆との思い出も携えて天国に旅立ったことだろう。

世界中から愛され敬われたボサノバのクリエイターの歌とギターを、日本でのライブCDと映像ソフトで見聴きできることをせめてもの喜びとしたい。(なかはら・じ
ん=音楽プロデューサー)
まいじょ * 音楽 * 11:30 * comments(0) * trackbacks(0)

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