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ライト(12) 私は不死身だ

I Am Immortal

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フランク・ロイド・ライト [DVD]


ヴィンセント・スカリー(建築史家)
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 過去の建築物や未来の人々のことを考え、我々は建物を造り上げる。メソポタミア時代に都市が形成され始めた頃から、不死身という概念が存在する。ギルガメッシュが最後に手に入れた不死身とは、その街にある建物だけだった。街を通して我々の命は限界を遥かに超え、生き続けることができるんだ。過去、そして未来との会話を通じてね。
ナレーション
 1943年、彼はニューヨークの美術館の設計を依頼された。抽象画を数多く所有するソロモン・R・グッケンハイム財団からである。モンドリアン、ドローネー、カンディンスキーが並んだ。ライトは抽象画を「指で描いた絵」と称した。傑作を見て「これは何だ?」と尋ねたとも言われている。しかし仕事を開始した彼は「期待しててくれ」と友人に言った。「向かいにあるメトロポリタン美術館がプロテスタントの小屋に見えるだろう」

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グッケンハイム美術館 透視図

エドガー・ターフエル(ライトの弟子)
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 彼はずっとスパイラルにこだわっていた。車庫に取り入れようとしたり、何度も挑戦した形だ。ようやくグッケンハイムでその機会がやってきた。美術館の建築という大きなチャンスだ。場所はニューヨークの5番街。彼はこういう機会を待っていたはずだ。

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模型を説明するライト

ナレーション
 しかし彼にとって最も難しい仕事になった。美術館の完成までに13年の月日が流れた。プロジェクトの費用も問題だった。75万ドルが200万ドルに跳ね上がったのだ。グッケンハイムの死後、後継者はライトを解雇すると言い始めた。奇抜なデザインは地区規制委員にも拒否された。困ったライトは市の建築責任者ロバート・モーゼスを訪ねた。「法を無視してでも美術館を建てる」彼は委員に言った。

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ライトとモーゼス

 そして1956年、ついに5番街と89丁目の角で美術館は着工された。内部にはスロープが1つだけ。最上部から作品を見ながら下る仕組みだった。着工後もプロジェクトへの議論は絶えなかった。辛らつな評論家もいた。ある評論家の言葉だ。「あの建物が持つ唯一の基本的な目的は注目を集めること」。彼をフランク・ロイド・ロング(wrong 過ち)と読んだ評論家も…。

ヴィンセント・スカリー(建築史家)
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 彼は街に馴染むような建物を望んでいなかった。公園の展示場を道路に建てるつもりだった。彼の美術館が素晴らしく見えるのは、周りの建物が法に従って建てられているからだ。あの美術館みたいな建物ばかりじゃ困る。

テレビ番組
 ライト 「洗濯機みたいな美術館だ」と言われた。
 聞き手 5番街の?
 ライト 私が造ったものだ。いろいろな反応があったよ。だが評価なんてくだらない。


ナレーション
 デ・クーニングやクラインなど21人の著名な芸術家たちがニューヨーク・タイムズ紙に作品展示は無理だと訴えた。曲線状に傾斜した壁のせいだった。「彼らの心は縛られている」とライトは反論した。「私の美術館に展示するなら最高傑作が作れるはずだ」

ブルース・ファイファー(ライトの弟子)
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 芸術作品が自然に見える建物を造りたいと彼は言っていた。そこでは自然な感じで壁に掛けられた作品に常に変化する光が当たる。絵画に建築物を服従させるつもりはない。彼はそれまでには無かったような絵画と建築物の統合を試みていたんだ。

メリル・セクレスト(伝記作家)
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 これは亡くなる6カ月前に美術館で撮った写真よ。足場に立って横を向いている。フェルト帽をかぶった彼は世界の頂点にいるみたいだわ。92歳間近だったのよ。これが私の心から離れないライトのイメージなの。

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美術館の現場に立つライト

ナレーション
 1959年春、グッケンハイムは完成間近だった。彼はタリアセン・ウエストから指示を出していた。視力は落ちていたが、彼は毎朝仕事机に向かおうとした。その春、最初の妻キティが逝去した。数日間、息子はそれを知らせなかった。50年前に捨てた女性の死を知りライトは涙を流した。早く知らせて欲しかったと言う彼に、息子は「生前は気にもしなかったのに」と答えた。
 それから間もない4月4日、ライトは腹痛を訴え入院した。腸閉塞の手術は無事に成功したが、その5日後、ライトは静かに息を引き取った。

ティム・ライト(ライトの孫)
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 亡くなってすぐ病院に駆けつけた。彼はベッドに横たわっていた。180センチの祖父が、あの時はとても小さくはかなく見えた。忘れられない光景だ。カリスマ性も一緒に去り、そこにあるのは身体だけだった。もはや英雄の存在感は消え去っていた。

エリック・ロイド・ライト(ライトの孫)
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 祖父は不死身だと私は思っていた。彼が亡くなった時、私は弟子をやめ、もう父と仕事をしていた。ロサンゼルスで訃報を聞いた。我々はすぐ飛行機に乗り、タリアセンに向かったんだ。そして…。私と父が居間に入っていくと祖父は棺桶に入っていた。我々は近づいて彼を見た。そしてお互いに抱き合った。父も私も激しく泣き出した。止まらなかった。そして彼が去ったことを認識したんだ。永遠にね。

ナレーション
 弟子たちが棺桶を車に納めた。ウィスコンシンまでの28時間の道のりは生前のライトが毎年使っていた道だった。タリアセンでは棺桶は花とともに車で運ばれた。彼が命をかけて愛した女性ママー・チェニーと同じように。遺言により彼は彼女の近くに葬られた。またライトの才能を育んだ母親も近くに眠っている。ライトの好きだったエマソンの一節だ。「人は誰でも社会に反する 高潔な心さえあれば何も恐れるものはない」

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ライトの葬儀

エドガー・ターフエル(ライトの弟子)
 彼は死後についてそれほど考えていなかった。だが彼の自伝にある一節で、晩年について語っているのだ。散歩に出かけた時、自然が美しいと感じたことや、木や草のそれぞれが本質的に違っていると感じたこと、小川の流れにも感動していた。地球の自然のほうが天国よりも美しいと思ったようだ。

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晩年のライト

ナレーション
 ライトが亡くなった半年後の1959年10月21日、グッケンハイム美術館が完成した。

ロバート・A・M・スターン(建築家)
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 ライトは土地の使い方を変えた人物だ。また家での生活の仕方やオフィスでの働き方も変えた。そして絵の鑑賞方法もだ。グッケンハイム以降、その建物が面白くなければ作品も楽しめなくなった。

ポール・ゴールドベルガー(建築評論家)
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 芸術の役割とは何か。芸術というものは、ある意味精神的なつながりなんだ。自分より大きなものや言葉では表現できない何かとのつながりなんだ。「芸術は真実を教える嘘である」。ピカソの言葉だ。芸術とは何かを感じるものだ。建築は他の芸術と違い、生活と密接な関係にある。屋根が雨から我々を守ってくれるようにね。天才ライトにはそれが分かっていた。ライトが造るのは生活のニーズを満たす建築物であり、それと同時に心を摑んで離さない作品だ。それはまるで超自然的な何かを体験している感じなんだ。

ウィリアム・クロノン(歴史家)
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 これまでのアメリカ人建築家でライトほど世界的に有名な人はいない。フランク・ロイド・ライトほど完璧な建築を実現した人もいない。

ブレンダン・ギル(作家)
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 いい家を安く造ることが建築家の仕事だと言われている。彼もそう信じていた。一方、彼は画期的な教会も作った。シナゴーグやユニティ教会、グッケンハイムは芸術の教会だ。彼はどちらの建築もできる。彼の傲慢さが無欲のものを生み出すんだ。彼のデザインだが個性は見えない。彼だけの記念碑ではなく。それは我々の記念碑だ。偉人の自己満足で終わらずに、誰もが何かを得られる記念碑だ。

テレビ番組
 聞き手 最後にもう1つ質問を。死を恐れますか?
 ライト 全然怖くない。死は最高の友達だ。
 聞き手 自分は不死身だと思いますか?
 ライト もちろん。今まで私は不死身だった。これからもそうだろう。年齢的に若いということに意味などない。全くね。だが若さは資質であり、失われはしない。それが不死身ということだ。
 聞き手 有難うございました。
 ライト 興味を持ってもらえたらいいが…
 聞き手 もちろん。
 ライト そんな確信はないがね。
まいじょ * ドキュメンタリー * 07:16 * comments(0) * trackbacks(0)

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