<< September 2018 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>
<< 薄餅からクレープへ | main | 新国立劇場「アイーダ」 >>

贋作・罪と罰

 NODA・MAP「贋作・罪と罰」脚本・演出=野田秀樹)をWOWOWで観た。原作の舞台は帝政末期のペテルプルグを幕末の江戸におきかえ、主人公を倒幕の志に燃える女塾生とすることにより、わたしたち日本人にはとてもなじみやすいドラマとなった。ドストエフスキーの原作の見事な翻案である。

贋作・罪と罰

●キャスト
 松たか子:三条英(ラスコーリニコフ)理想のために罪を犯した主人公
 古田新太:才谷梅太郎(ソーニャ)英の良き理解者であり、もう一つの顔をもつ男
 段田安則:都司之介(ポルフィーリー)罪を犯した英を追いつめるいわば刑事役
 宇梶剛士:溜水石右衛門(スヴィドリガイロフ)幕末の政情不安に暗躍する謎の人物
 美波:英の妹・三条智(ドゥーニャ)可愛さの中にも心の強さを見せる
 野田秀樹:英の母・三条清、強欲な老婆おみつ(二役)

 若い頃の野田の戯曲のような言葉遊びは少なく、舞台設定を除けば、物語はかなり原作に忠実に進行する。まるで現場に居合わせたかのような臨場感があったのは、老婆殺人のシーンやその後わずかのすきをついて逃走に成功するシーンだ。
 舞台をはさんで後方と前方に客席が設けられ、セットは何もない。そこに数種類の椅子とポールが登場し、舞台は一瞬のうちに老婆の質屋から主人公の部屋、警察署……と、テンポ良く場面転換する。とても面白い演出だった。
 また、原作を「追い詰める側と追い詰められる側とのサスペンス劇」としてとらえた野田は、都司之介に刑事コロンボのように下手にでながら知的な推理によって犯人を追い詰める知的な性格を与え、段田安則が好演した。
   おもしろくて、くり返し読みましたよ。『この世には、犯罪を行うことが出来る人間が存在する。人間は、凡人と天才に分かれ、天才は、あらゆる法律を踏み越える権利がある』そんなくだりがありましたね。
    少し違います。手当たり次第殺したり、かっぱらったりする権利を持っているというのではありません。ただ人間の生命を犠牲にする以外に、天才が、そのなすべきことをなし得ないとしたら。
    『彼らはひそかに良心の声に従い、血を踏み越える権利を自分に与える』まさか、このH.S.という筆者が、三条英という女性だとは思いませんでしたよ。

 ついに都の追求は仕上げにはいる。
   この事件は、左官屋じゃありません、この事件には書物上の空想があります。理論に刺激された苛立つ心があります。とにかく殺した、二人も殺した、理論に従って、呼鈴を鳴らされ、引き戸一枚の恐怖にも耐えた。人を殺してなお、身を潔白と考え、人々を軽蔑し青白い天使面をして歩き回っている。あの左官屋には出来ません、英さん、これは左官屋じゃない。
    じゃあ……誰が……殺したんです?
    誰が殺した? あなたが殺したんですよ、三条英、あなたが殺したんだ。

 都に追い詰められ、徐々に精神がおかしくなっていく主人公・英を松たか子がうまく演じていた。終幕近くの彼女の慟哭。涙なしでは観られなかった。彼女の復活の鍵を握るのは、才谷である。
   才谷、あたしがまちがっていたら許してね。
才谷  英。今すぐ外に出て、十字路に立ち、ひざまずいて、あなたのけがした大地に接吻しなさい。それから世界中の人々に対し、四方に向かっておじぎをし、大声で「わたしが殺しました!」と言いなさい。それから、まっすぐ、ひと言も言わず、牢に入りなさい。そして、その牢の扉が開くのを待ちなさい。俺が、俺がその扉を開けてやる。新しい時代と共に。
   あたしが、待つの。
才谷  英、お前が牢屋の中で俺を待つんじゃない。俺が牢の外でお前を待ち続けるんだ。そして、それから一緒になるんだ。新しい岸辺で、渡り来し彼の岸辺で、大川に抱かれている気がするって。

 ラストシーンの舞台の美しさ、音楽の高揚感は素晴らしいかった。
   覆された宝石のような朝、なんびとか戸口にて誰かとささやく。それは神の生誕の日。才谷、音が聞こえてきたよ。それは私には雪の音色だ。雪の日の朝は何も聞こえない。なのに外は雪だってわかる。雪の音色は、きれいもきたないも、この世の音のすべてを吸い取ってくれる。(ひざまずく)私がけがした大地よ、どうぞ、この音で、この詩で鎮まってください。(大地に接吻する)三条英、私が、殺しました。

 生で観られなかったのが本当に残念だ。いいものをみせてもらった。1995年の初演の台本と比較すると、細かいところでずいぶん改善されていた。大げさかもしれないが、野田秀樹によるドストエフスキーの翻案は、沼野充義がいう「世界文学」をつくる試みの一つではないかと思う。

(【収録】2006年1月12日 東京 Bunkamuraシアターコクーン)


JUGEMテーマ:演劇・舞台


まいじょ * ステージ * 18:18 * comments(3) * trackbacks(0)

コメント

実は、私は演劇は、あまり好きでは無く、あまり観ません。

東京では、一度、紀伊国屋で、演劇を観ただけです。(「山海塾」等、「舞踏」は昔、よく観ましたが…。)
演技者の誇張された演技を観ていると、どこか違和感を感じるからです。違和感とは、この人間の社会において、舞台(演劇者の回り)だけ、何か、浮き上がった空間世界が出来ているように感じ、自分の世界から離れて行くように感じるからです。
と、云っても、演劇の良さを否定している訳ではありません。
5〜6年前か、「寺山修司の<身毒丸>」をテレビで観ましたが、揺れ動く身毒丸の心理が強く伝わりました。
大学時代、大学に入学当時、演劇部があれば、入部したいと思ったぐらいですから…。
但し、「演劇者の周りだけ、浮き上がった空間が出来る」違和感が、私には自然でないと感じるのだと思います。映画の方が、自然な芸術だと思っています。

そう云う訳で、野田秀樹氏の「贋作・罪と罰」は観ていません。
しかし、まいじょさんの「贋作・罪と罰」の感想を読ませていただき、(原作のドストエフスキーの原作は、昔、2回ほど読みましたが、)舞台を幕末の江戸におきかえた「贋作・罪と罰」は、面白そうだと思いました。
やはり、原作の奥深い心理描写がすごいからと思いますが、それを、野田秀樹氏が、上手く捉えなおしているからと思います。

なお、私のブログの返事で触れたことですが、
ラストシーンでの英の言葉、「才谷、音が聞こえてきたよ。それは私には雪の音色だ。雪の日の朝は何も聞こえない。なのに外は雪だってわかる。雪の音色は、きれいもきたないも、この世の音のすべてを吸い取ってくれる。」と云う会話の中の「雪の音色」は、サイモンとガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」につながるものがあると思いました。
<雪の音色>は、はじめて聞く言葉ですが、しんしんと降る雪にも、「沈黙の音(響き)」があるような気がします。
・・・<雪の音色>は、心が浄化する「響き」のような気がします。
Comment by mohariza @ 2008/03/16 9:23 AM
大学を卒業する間際、一種のモラトリアムなのでしょうが、東宝の脚本家養成学校に入ろうかと本気で考えたことがあります。この学校に入ると、東宝系の劇場や映画館は洋画も含めて観たい放題という特典も魅力でした。

たぶん新藤兼人監督が書いたシナリオ入門書の影響も大きかったと思います。この本は、エリア・カザン監督の「エデンの東」を題材にして、スタインベックの原作をいかにうまくカットしてあるか、カットした前半部のエッセンスをいかに圧縮して表現しているかを上手に解説していました。ほほう、これならいい原作さえあれば、シナリオを書くなんて簡単だと安易に考えたものです。

でも、現実には、映画が原作を超えることはごくまれにしかありません。演劇でも同様でしょう。そういう中で野田秀樹の「贋作・罪と罰」は、ドストエフスキーの核心をとらえることに成功していました。

雪の音色は、2005〜6年公演で新たに加わったセリフですが、本当にすばらしい表現だと思います。
Comment by まいじょ @ 2008/03/18 1:37 PM
「現実には、映画が原作を超えることはごくまれにしか」無いかもしれませんが、監督のイマジネーションによって、原作を越えていると思われるものはあると思います。

ルキノ・ビスコンティの「ベニスに死す」は、主人公の役柄は、トーマス・マンの原作の作家から、音楽家に変え、その映画音楽と共に、原作より雄大な物語になっっていたと思います。

日本においても、「砂の器」は、野村芳太郎監督が、主人公のを現代音楽家から、クラシックのピアニストにして、松本清張の小説よりも、やはりテーマ音楽と共に、雄大に仕上がった気がしています。

アンドレイ・タルコフスキーの「(惑星)ソラリス」(スタニスワフ・レムの小説が原作)及び「ストーカー」(原作は、ストルガツキー兄弟による小説「路傍のピクニック」)も、原作とは、違った設定ですが、私は小説よりも、映画の方が、印象深く感じました。

もちろん、監督がイマジネーションを湧かす原作が無ければ、良い映画は出来ませんが、上記の映画は、原作を越えていると云っても良いと思います。
Comment by mohariza @ 2008/03/18 9:54 PM
コメントする









トラックバック

このページの先頭へ