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「キッド」におけるチャップリンの自伝層

 昨日、(亀山郁夫「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」)で、ドストエフスキーの小説世界を、象徴層、自伝層、物語層という上中下の三層構造として捉えるアプローチを紹介した。

 この分析手法を、映画「キッド」にあてはめ、三層構造として捉えたらどうなるか。キッドの映画世界におけるチャップリンの自伝層がどのようなものかを探ってみたい。

三層構造

 「キッド」の物語層をまとめると次のようになる。母親が、やむをえず赤ちゃんを捨てる。その赤ちゃんをチャップリンが拾う。なさぬ仲の父子家庭で、チャップリンは苦労して5歳になるまでその子を育てあげる。その間、母親は歌手として成功し、子供たちのために慈善活動を行うまでになった。チャップリンの育てた子供が病気になったことから、施設に引き取られることに。チャップリンは一度は子供を取り戻す。だが、実の子の消息を知った母親は警察や報償金という力を借りて、子供を自分の元に引き取ることに成功する。わが子を奪われたチャップリン。だが、最後は警察に連れられて母親の家に招かれ、キッドと再会する...

 「キッド」の象徴層は、やはりキリスト教にかかわる神と悪魔、善と悪であり、それがこの映画の物語層を動かすテーマとなっている。直接対立することはないが、「育ての親」と「産みの親」の、子供に対する愛の葛藤のドラマでもある。福祉をめぐる「家庭」と「行政」の棲み分けといったことも、もしかしたら象徴層レベルのサブテーマの一つとなるかもしれない。

 では「キッド」におけるチャップリンの自伝層とは何か。

 第一に、チャップリンの第一子がこの映画の制作開始の直前に死んでいることに注目する必要がある。それが子供をテーマとする映画をつくる動因になったことは推測がつくし、この映画での子供への親密な愛情表現につながっていると考えられる。

 第二に、チャップリン自身の少年時代の体験にも目を向ける必要がある。チャップリンが1歳のときに両輪が離婚。極貧のなかで母親は精神病院に入院。まもなく父は酒の飲み過ぎで死去し、幼い兄弟は貧民館や孤児院を転々とする。こうした体験があればこそ、チャップリンは、キッドから迫真の演技を引き出すことができたのだと思う。

 第三に、チャップリン自身の芸の力のみによる成功にも着目しておきたい。男に捨てられ、生活力もないために、やむをえず子供を捨てた母親。だが、歌手としての実力によってのしあがった。映画における母親の成功物語は、チャップリン自身の立身出世物語と重ねて考えるべきである。

 ドストエフスキーの小説と異なって自伝層が映画の中で直接語られることは少ないけれども、こうしたチャップリンの自伝的要素がなければ、この映画にこれほど深い奥行きが出たかわからない。

 チャップリンは、母親の慈善活動を「善」として描くのに対し、権力による福祉行政を「悪」として描く。また、キッドの安住の地として、施設ではなく、家庭を選んだ。

 20世紀初頭、欧米の資本主義社会では、子供を育てることのできない母親は、子供を街に捨てざるをえなかった。だが、はるか昔、ルネッサンスの時代のフィレンツェにはオスペダアレ・デリ・インノチェンティ(捨て子養育院)があったのである。

「このオスペダアレ・デリ・インノチェンティを見たときに、ぼくは本当に驚いた。この建築がどうしてこんなに美しいのか、と、いろいろ考えてみると、それは、平等の愛すべき幼児のなかに私生児などという差別をする残酷な社会、社会の責任を幼児に負わせるような時代とたたかう新しい時代、新しい社会の美しさです。家庭の子供にはあのように美しい階段はいらないのです。家庭があるかぎり、建築芸術の必要はない。家族が解決することができない問題を、建築芸術が解決するのだ。不幸な母親が川に身を投げる代わりにあの階段を上がって行くように美しい階段でなければならない。川に身を投げるよりもこの階段を上がっていこうというのは、よほど美しい階段でないと、川のほうへ行ってしまうのです。」
(羽仁五郎「都市の論理」)


オスペダアレ・デリ・インノチェンティ

 上の写真は、オスペダアレ・デリ・インノチェンティ。羽仁五郎の言葉にのせられたのか、私はフィレンツェでこの建物をみて、感動のあまり立ちつくしてしまった。こうした施設があれば、母親はキッドをここに託したはずである。

 現代日本、徳島にできた赤ちゃんポストに対し賛否さまざまの意見があるようであるが、子供を捨てざるを得ない母親がいるかぎり、捨てられる子供を救うことを第一に考えるべきだと思う。
まいじょ * 映画 * 09:23 * comments(2) * trackbacks(0)

コメント

こんにちは。cafe Mayacovskyからこちらによらせていただきました。昔、フランスの里子と捨て子の制度について調べていたことがあり、フィレンツェの捨て子養育院の記事を見て興味をひかれました。文書資料だけで調べるよりも実際に行ってみたほうが、はるかに説得力がありますね。今度イタリアに行ったら、ぜひオスペダアレ・デリ・イノチェンティを訪れたいと思います。行きかたを教えていただければ幸いです。
Comment by サーシャ @ 2007/12/28 12:45 AM
サーシャさん、ようこそおいでくださいました。

cafe Mayacovskyで伺った可哀想な子猫の話を捨てた話、身につまされました。私も幼い時に似たような体験があります。

さて、ご質問のオスペダアレ・デリ・イノチェンティですが、アヌンツィアータ教会とともに、サンティッシマ・アヌンツィアータ広場に面しています。google マップで"Piazza della Santissima Annunziata"を検索していただき、縮小を小さくすればフィレンツェでの位置がわかるかと思います。

捨て子養育院は、フィレンツェの絹織物業者の組合が儲けを社会還元するために設置したもので、15世紀なかばから19世紀末あたりまで機能していたようです。建物の奥の方には、元祖「赤ちゃんポスト」があるそうですが、私は見逃しました。
Comment by まいじょ @ 2007/12/28 11:45 AM
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