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劇団民藝「静かな落日」

 今日(4月29日)は、劇団民藝の公演 「静かな落日」を観に、新百合ヶ丘の麻生市民館に行ってきた。

「静かな落日」パンフレット
作=吉永仁郎
演出=高橋清祐
出演=伊藤孝雄 樫山文枝 水谷貞雄 安田正利 小杉勇二

 松川事件は、下山事件、三鷹事件と並び、第二次世界大戦後の「国鉄三大ミステリー事件」の一つといわれており、容疑者が逮捕され、第一審では容疑者20名が死刑を含む有罪判決を受けた。裁判が進むにつれ被告らの無実が明らかになり、作家の広津和郎が中央公論で無罪論を展開するなど、作家・知識人の支援運動が起こり、世論の関心も高まった。


 主人公は、広津和郎(伊藤孝雄)。父・広津柳浪(安田正利)から娘・広津桃子(樫山文枝)まで、広津家三代の家族を中心として、志賀直哉や宇野浩二といった作家仲間との交友を描いた物語である。小説を書くことへの情熱がやや冷めていた広津和郎が、ひょんなことから松川事件と関わることにより情熱が蘇ったこと。そして広津和郎が、政治的には中立で、この裁判を政治事件としてではなく、あくまで刑事事件としてただそうとしたことが描かれる。

「静かな落日」舞台

 劇団民藝の公演ではいつものことながら、伊藤孝雄や樫山文枝といったベテラン俳優の演技は安心して観ていられる。この演目は200回以上公演を重ねただけあって、照明を暗くしたときの場面展開も鮮やかだった。ただ、難をいえば、幕開きなどに流れたピアノの音楽は、余計だし、センスがないと私は感じた。

 今年も「川崎・しんゆり芸術祭(アルテリッカしんゆり)」の一環として、昨年に引き続き川崎市に避難している被災者も招待されていたようだ。会場はほぼ満席だった。劇団民藝の稽古場が川崎市(黒川)にあるおかげで、稽古場公演に気軽に行くことができたり、こうしたイベントを案内していただいて、本当にありがたいと思っている。



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まいじょ * ステージ * 21:17 * comments(0) * trackbacks(0)

劇団民藝 十二月 下宿屋「四丁目ハウス」

 今日(5月5日)は、劇団民藝の公演 「十二月 下宿屋『四丁目ハウス』」を観に、新百合ヶ丘の麻生市民館に行ってきた。

十二月

作=小山祐士
演出=高橋清祐
出演=梅野泰靖 奈良岡朋子 樫山文枝 日色ともゑ


 今日の公演は、毎年ゴールデンウィークに開催されるイベント「川崎・しんゆり芸術祭(アルテリッカしんゆり)」のプログラムの一つとして企画されたもので、当初販売予定の座席は満席となり、ホール後方の追加席もかなり埋まっていた。川崎市に避難している被災者も招待されていたようだ。

 昭和初期の大恐慌の時代、大会社からリストラされた元サラリーマンがはじめた下宿屋が舞台で、「大学は出たけれど」就職先がみつからないとか、景気が悪く閉塞した状況は、今と共通している。下宿屋の主人夫婦を中心に、下宿している学生や就職してまもない若者たちが織りなす人間ドラマである。出世のために財閥の娘と結婚しようとする官僚は今でもいるかもしれないが、その分不相応な政略結婚を成功させるために、兄である主人公が下宿屋をやめて売却しなればならないという事情が、私にはどうも理解できなかった。

 豪華出演陣の中でも、下宿屋のおかみを演じた奈良岡朋子の演技がひときわ光っていた。台詞がはっきりして、つぶやきまでも伝わってくること、立ち居振る舞いの速さや正確さ、からみのうまさは秀逸で、まったく歳を感じさせない。梅野泰靖も、笑いを誘うはまり役で、奈良岡との息もぴったり合っていた。樫山文枝も先日の「シーバ」とはまた違う妖しい魅力を出していたし、日色ともゑもよくあんな若々しい役を演じられたものだと感心した。

 劇団民藝らしい、本当に作り手一人一人の真摯さを感じさせる芝居で、いいものを観させてもらった。ありがとう。



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まいじょ * ステージ * 18:09 * comments(0) * trackbacks(0)

劇団民藝「帰れ、いとしのシーバ」

 夕方起きた地震で、東京でもかなり強い揺れを感じ、正直怖った。中央線も一時止まったが、すぐに動き出したので、新宿紀伊國屋サザンシアターに向かった。劇団民藝の公演「帰れ、いとしのシーバ」の開演に何とか間に合った。

帰れ、いとしのシーバ

作:ウィリアム・インジ
訳:丹野郁弓
演出:兒玉庸策

出演:樫山文枝、西川明、渡辺えりか ほか


 開演前、劇団のスタッフから、地震が起きた場合の避難のしかたについて、アナウンスがあった。夕方の地震の直後だけに、現実味のある注意だった。案の定、上演の途中でも小さな地震があり、客席は軽くどよめいたが、舞台は滞りなく進んでいった。

 台本を書いたインジは、「バス停留所」「草原の輝き」「ピクニック」などの映画の脚本を書いた人だ。本作「帰れ、いとしのシーバ」は舞台でも数々の賞を受賞し、映画化された作品(「愛しのシバよ帰れ」)もアカデミー賞を受賞している。

 時代背景としては、今から考えるとかなり遠い昔のこととなる。でも、夫婦の愛の葛藤やすれ違い、若者によって呼び覚まされる青春の思い出、アルコールへの逃避など、時代を超えて普遍的なごとばかりで、現代にも十分に通用するストーリーであった。

 主演の樫山文枝の年齢を感じさせないはじけた演技、西川明の善悪併せ持った多重人格の人物像など、役者として円熟を極めていた。新人の渡辺えりかも大器となることを予感させる好演だった。



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まいじょ * ステージ * 23:57 * comments(0) * trackbacks(0)

劇団民藝「洗い屋稼業」

 昨日(8月14日)は、劇団民藝の稽古場公演「洗い屋稼業」を観てきた。

稽古場玄関

作 モーリス・パニッチ
訳 吉原豊司
演出 高橋清祐
出演 水谷貞雄 小杉勇二 里居正美 梶野 稔

 会場は稽古場だから、収容人員50名ほどしかない。若い女優さんからドリンクサービスをいただきながら開演を待つ。すぐ目の前の舞台には、洗い場の什器がおかれ、たくさんの皿が積み重ねられている。

洗い場の舞台

 舞台は、高級レストランの地下の洗い場。華やかな地上の世界と結ぶのは、皿を運ぶダムウエーター(荷物専用のエレベーター)と、地下で働く者だけが上り下りする階段だ。ダムウエーターで汚れた皿が上から送られてきたら、それをきれいに洗ってから上に送り返す。その単純な繰り返しが、この劇の登場人物「洗い屋」の仕事だ。

 まず、地下という舞台の設定が面白い。地上は、華やかな饗応の場であり、金持ち=成功者=知的労働者=搾取者の世界である。これに対し、地下の洗い場は、貧乏人=脱落者=労働者=単純労働者=被搾取者の世界である。ドストエフスキーの地下室と同様、地下で生きる人々は地上の世界とは断絶しながら、たえず地上を意識しなら暮らしている。上にいる上司や客たちは、決して下の世界に足を踏み入れることはない。上から時折きこえる喧騒の音。上から運ばれる食べ残しでわかる地上の人々の豪奢な暮らし。それに比べて、地下で働く「洗い屋」たちの何とみじめなことか。

 だが、洗い屋のボスは、このレストランの信用は洗い屋の仕事の完璧さによって保たれているのだといって、新人にプロ意識を植えつけようとする。職業に貴賎はないともいう。だが、職業を選べるなら、こんな仕事はしたくないという仕事に、実に多くの人がついているのも事実だろう。

 新人は、どうしても洗い屋の仕事に甘んじることができず、きっかけをつかんで去っていく。ある日、彼は、逆・玉の輿にのることに成功し、「上」のレストランで開いた結婚披露宴を中座して、「下」の洗い場に現れる。普通に考えれば、嫌な奴である。だが、成り上がった彼は、幸福をつかんだわけではなかったようだ。

 原作者はカナダ人の翻訳ものということだが、台詞が日本語として十分にこなれていた。日本でも、不況やリストラで、この劇の登場人物の台詞に身につまされることも多いと思う。観終わってからも、いろいろ考えさせられる深い内容の演劇だった。

 狭い稽古場が地下室の臨場感を高めることに成功し、役者たちの演技が迫力をもって伝わってきた。劇団民藝の稽古場公演を観たのはこれで3回目だと思うが、こうした実験的な試みはぜひ続けていただきたい。私も、紀伊国屋サザンシアターや三越劇場での本公演にも行くことにしよう。事業仕分けの影響で、多くの芸術団体が悪影響を受けているようだが、劇団民藝のような良質な演劇のともしびを絶やさぬために、できることはそれしかない。



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まいじょ * ステージ * 11:40 * comments(1) * trackbacks(0)

贋作・罪と罰

 NODA・MAP「贋作・罪と罰」脚本・演出=野田秀樹)をWOWOWで観た。原作の舞台は帝政末期のペテルプルグを幕末の江戸におきかえ、主人公を倒幕の志に燃える女塾生とすることにより、わたしたち日本人にはとてもなじみやすいドラマとなった。ドストエフスキーの原作の見事な翻案である。

贋作・罪と罰

●キャスト
 松たか子:三条英(ラスコーリニコフ)理想のために罪を犯した主人公
 古田新太:才谷梅太郎(ソーニャ)英の良き理解者であり、もう一つの顔をもつ男
 段田安則:都司之介(ポルフィーリー)罪を犯した英を追いつめるいわば刑事役
 宇梶剛士:溜水石右衛門(スヴィドリガイロフ)幕末の政情不安に暗躍する謎の人物
 美波:英の妹・三条智(ドゥーニャ)可愛さの中にも心の強さを見せる
 野田秀樹:英の母・三条清、強欲な老婆おみつ(二役)

 若い頃の野田の戯曲のような言葉遊びは少なく、舞台設定を除けば、物語はかなり原作に忠実に進行する。まるで現場に居合わせたかのような臨場感があったのは、老婆殺人のシーンやその後わずかのすきをついて逃走に成功するシーンだ。
 舞台をはさんで後方と前方に客席が設けられ、セットは何もない。そこに数種類の椅子とポールが登場し、舞台は一瞬のうちに老婆の質屋から主人公の部屋、警察署……と、テンポ良く場面転換する。とても面白い演出だった。
 また、原作を「追い詰める側と追い詰められる側とのサスペンス劇」としてとらえた野田は、都司之介に刑事コロンボのように下手にでながら知的な推理によって犯人を追い詰める知的な性格を与え、段田安則が好演した。
   おもしろくて、くり返し読みましたよ。『この世には、犯罪を行うことが出来る人間が存在する。人間は、凡人と天才に分かれ、天才は、あらゆる法律を踏み越える権利がある』そんなくだりがありましたね。
    少し違います。手当たり次第殺したり、かっぱらったりする権利を持っているというのではありません。ただ人間の生命を犠牲にする以外に、天才が、そのなすべきことをなし得ないとしたら。
    『彼らはひそかに良心の声に従い、血を踏み越える権利を自分に与える』まさか、このH.S.という筆者が、三条英という女性だとは思いませんでしたよ。

 ついに都の追求は仕上げにはいる。
   この事件は、左官屋じゃありません、この事件には書物上の空想があります。理論に刺激された苛立つ心があります。とにかく殺した、二人も殺した、理論に従って、呼鈴を鳴らされ、引き戸一枚の恐怖にも耐えた。人を殺してなお、身を潔白と考え、人々を軽蔑し青白い天使面をして歩き回っている。あの左官屋には出来ません、英さん、これは左官屋じゃない。
    じゃあ……誰が……殺したんです?
    誰が殺した? あなたが殺したんですよ、三条英、あなたが殺したんだ。

 都に追い詰められ、徐々に精神がおかしくなっていく主人公・英を松たか子がうまく演じていた。終幕近くの彼女の慟哭。涙なしでは観られなかった。彼女の復活の鍵を握るのは、才谷である。
   才谷、あたしがまちがっていたら許してね。
才谷  英。今すぐ外に出て、十字路に立ち、ひざまずいて、あなたのけがした大地に接吻しなさい。それから世界中の人々に対し、四方に向かっておじぎをし、大声で「わたしが殺しました!」と言いなさい。それから、まっすぐ、ひと言も言わず、牢に入りなさい。そして、その牢の扉が開くのを待ちなさい。俺が、俺がその扉を開けてやる。新しい時代と共に。
   あたしが、待つの。
才谷  英、お前が牢屋の中で俺を待つんじゃない。俺が牢の外でお前を待ち続けるんだ。そして、それから一緒になるんだ。新しい岸辺で、渡り来し彼の岸辺で、大川に抱かれている気がするって。

 ラストシーンの舞台の美しさ、音楽の高揚感は素晴らしいかった。
   覆された宝石のような朝、なんびとか戸口にて誰かとささやく。それは神の生誕の日。才谷、音が聞こえてきたよ。それは私には雪の音色だ。雪の日の朝は何も聞こえない。なのに外は雪だってわかる。雪の音色は、きれいもきたないも、この世の音のすべてを吸い取ってくれる。(ひざまずく)私がけがした大地よ、どうぞ、この音で、この詩で鎮まってください。(大地に接吻する)三条英、私が、殺しました。

 生で観られなかったのが本当に残念だ。いいものをみせてもらった。1995年の初演の台本と比較すると、細かいところでずいぶん改善されていた。大げさかもしれないが、野田秀樹によるドストエフスキーの翻案は、沼野充義がいう「世界文学」をつくる試みの一つではないかと思う。

(【収録】2006年1月12日 東京 Bunkamuraシアターコクーン)


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まいじょ * ステージ * 18:18 * comments(3) * trackbacks(0)

劇団民藝公演「白バラの祈り」

 劇団民芸公演「白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々」を紀伊国屋サザンシアターで観て来た。

2007年劇団民藝公演『白バラの祈り』

 第二次世界大戦中のドイツでナチスの暴政に反旗を翻したミュンヘン大学の学生グループ。彼らは同じドイツ人でありながら、ナチ政権を倒すために「白バラ」と記された反戦ビラを秘密裏に配布する。
 1943年、ついにゲシュタポに逮捕された学生たちの尋問にあたるモーアは、若い女性ゾフーに偽りの告白をさせようとする。しかし、彼女は毅然として拒否するのだった...。

 映画(「白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々」)が完全に時系列な構成で、ゾフィーのみに焦点を絞っていたのに対し、演劇は最期の5日>間を中心としつつも、時折フラッシュバックで過去のシーンを挿入したり、同じ舞台を複数の場に分けて、兄ハンスや他の男子学生の取り調べの様子を描いたりして、ポリフォニー(多声)的に描いていた。
 映画版がわりと演劇的な構成だったのに対して、演劇版の方がより映画的な構成を試みて、それぞれかなり成功したように思う。

 この劇の中で最も印象に残ったのは、ゾフィー(桜井明美)の次のセリフだ。
「 一番おそろしいのは、何とか生き延びようと流れに任せている何百万という人達です。唯々そっとしておいて欲しい、何か大きなもの自分達の小さな幸せを壊されたくない、そう願って身を縮めて生きている、一見正直な人達です。自分の影に怯え、自分の持っている力を発揮しようとしない人達。波風を立て、敵を作ることを恐れている人達」


●スタッフ
作:リリアン・グローグ
訳:吉原豊司
演出:高橋清祐
●キャスト
ゾフィー・ショル(女子大生):桜井明美
ロベルト・モーア(ゲシュタポの尋問官):西川 明
アントン・マーラー(ゲシュタポの捜査員):三浦 威
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まいじょ * ステージ * 23:55 * comments(2) * trackbacks(9)
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