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グッド・ウィル・ハンティング

 主人公マット・デイモンは、天才的な頭脳をもちながらガテン系の仕事に甘んじている。そのくせ、エリートやアカデミズムに反発し、時おり頭の良さをひけらかす。

 このところ私は数学づいているが、この映画にもフィールズ賞受賞者の数学者のMIT(マサチューセッツ工科大学)教授が登場する。教授が学生に出した難問をデイモンは難なく解くばかりか、教授がどうしても解くことのできない超難問まで解いてしまうのだ。

公園

 そんな天才がなぜ、レンガ積みや清掃人などやっているのか。なぜことさら、MITを選んで清掃をしているのか。あえて才能を無駄にするような生き方をしているのはぜなのか。

 心を閉ざし青春時代を無為に過ごすデイモンの精神的治療にあたるのが、心理学者のロビン・ウィリアムスだ。この二人の間の心理的な駆け引きが面白い。初めてのカウンセリングで、ウィリアムスの部屋を訪れたとき、デイモンはウィリアムスの亡き妻の描いた絵にひどい言葉を吐き、ウィリアムスの心をを引き裂いた。

 次の日、公園で、ウィリアムスはデイモンに「君が絵について言ったことを考えた。眠らずに考えた。」と言って、次のように語る。少し長いセリフだが、字幕を少し補って、省略なしに引用しよう。
「美術の話をすると、君は美術本の知識を語る。ミケランジェロのことにも詳しいだろう。彼の作品、政治野心、法王との確執、セックス面での好み...、何だって知っている。
 だが、君はシスティナ礼拝堂の匂いをかいだことがあるか? あの美しい天井画を見上げたことがあるか? ないだろう。
 君は愛の話をすれば君は愛の詩を暗誦する。だが、自分をさらけ出した女を見たことはあるか?
 目ですべてを語っている女、君のために天から舞い降りた天使、君を地獄から救い出す。君も彼女の天使となって彼女に永遠の愛を注ぐ。どんな時も… 癌に倒れても。2ヶ月もの間、病院で彼女の手を握り続ける。医師も面会規則のことなど口に出せない。自分への愛より、強い愛で愛した誰かを失う。その悲しみと愛を君は知らない。今の君が知性と自信を持った男か?
 今の君は生意気な怯えた若者。だが天才だ。それは認める。天分の深さは計り知れない。だが絵一枚で傲慢にも僕って人間を切り裂いた。
 君は両親がいない。もし僕がこう言ったら、君はどういう気がするのだろう?
 “君のなめた苦しみはよく分かる。『オリバー・ツイスト』を読んだから”
 僕にとってはどうでもいいことだ。君から学ぶことは何もない。みんな本に書いてある。
 だが、君自身の話なら喜んで聞こう。君って人間に興味があるから。それはイヤなんだろう。君はそれが怖い。あとは君次第だ。」

 なかなか心の中を覗かせないデイモンに対し、ウィリアムスは自分がかつてそそいだ愛を率直に語る。この言葉がきっかけとなったのか、他の精神科医や心理学者は拒んだのに、ウィリアムズのところにはしぶしぶカンセリングに通うようになる。

 心を開かないマット・デイモンは、恋人のハーバードの女子大生に対しても“I love you”のひと言がいえない。私には、そのあたりのデイモンの心理が手に取るようによくわかる。私もある時期、真剣であればあるほど、結婚とか家庭とかに結びつく可能性のある言葉は決して口に出さないようにしていた。そのことでどれだけ相手を傷つけたことか。恋人のつらそうな姿が痛々しい。

 マット・デイモンとベン・アフレック(デイモンの親友役で出演)の共同による脚本がいい。配役も、マット・デイモンといい、ロビン・ウィリアムスといい、本当に「はまり役」である。ガス・ヴァン・サント監督の演出も冴えている。

 だが、次のセリフは、台本にはなく、ロビン・ウィリアムスのアドリブだそうだ。
「妻は緊張するとおならをするヘンな癖が…眠っている時もね。ある夜はその音で犬が目を覚ました。妻は目を覚まして“今のはあなた?”

 聞いているマット・デイモンも大笑いしているが、カメラもこらえきれず少し揺れているのが面白い。

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まいじょ * 映画 * 12:45 * comments(2) * trackbacks(4)

ビューティフル・マインド

 この映画は、昨日とりあげた「素数の魔力に囚われた人々」の一人、アメリカの天才数学者、ジョン・ナッシュ(1928-)の物語である。彼は、若くしてゲームの理論や微分幾何学で画期的な成果をおさめ、後年、その功績からノーベル経済学賞を受賞した。

ノーベル賞授賞式

 学生の頃から、ナッシュはとても変わった男だった。近代経済学の常識を打ち破る新しい発見をした時のエピソードが面白い。学生クラブのようなところで、仲間の男子学生4人とつるんでいるところに、美しいブロンド嬢とその女友達4名が現れる。まるでフィーリング・カップル5×5のような状況だ。友人のハンセンは、どうせフラれると思って、ナッシュにブロンドにアタックしろとけしかける。

ハンセン「君ら、思い出せよ。近代経済学の父アダム・スミスは何と言った?“競合社会では個の野心が公の利益である”。行けよ。口をきいてフラれてこい
ナッシュ「アダム・スミスは間違っている。
ハンセン「何だと?
ナッシュ「皆がブロンドを求めたらどうなる?−−競合するだけで誰も彼女をモノにできない。じゃ女友達を求めるか?−−“本命じゃないのね”とムクれてフラれるだけだ。だから、ブロンドを無視するんだ。そうすれば利益は衝突せず、女友達も気を悪くしない。それで皆、女を抱ける

ナッシュ「アダム・スミスは言った。“最良の結果はグループ全員が自分の利益を追求すると得られる。”間違いだ。“最良の結果は、全員が自分とグループ全体の利益を求めると得られる”


 これこそ、ゲームの理論の中核をなす「非協力ゲームより協力ゲームを」という話である。今や、この話が普及しすぎたためか、美しい女性に誰もアタックしようとしないようだ。全然モテナイ美人、「なぜこの人が」というのに売れ残っている美人というのが本当にいることを私は知っている。

 さて、ナッシュはリーマン予想に取り組んだ頃から、統合失調症におかされ、幻覚に悩まされるようになる。米軍のスパイが登場し、その依頼で暗号解読をしたり、学生時代のルームメートやその娘の女の子が現れるて交流したりするが、それらはみな病気による幻覚だった。女の子が何年たっても大きくならないことに気づき、幻覚の人々に別れを告げるシーンは涙をさそう。ある意味、自分の分身との決別だったのだろう。

幻覚の女の子

 統合失調症のつらさや向精神薬による治療の苦しさ、家族の不安などが実際どれほどのものかはわからないが、映画ではそれなりによく描かれていたと思う。特に、薬のために妻を拒んだこと(そのつらさ)により、妻がヒステリーを起こし、それで薬を一時飲まなくなったこと(そのつらさ)など、身につまされた。

 現存するノーベル賞受賞者を描いたために、かなり事実とは異なる脚色が行われたようだ。そうした点について批判があるとも聞く。だが、醜いところに目をつぶり、ただ美しく描いて何が悪い。テンポのいい脚本は見事であった。
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まいじょ * 映画 * 21:33 * comments(0) * trackbacks(1)

チャップリンの日本

 昨日(12月19日)、京橋の東京国立近代美術館フィルムセンターで、「チャップリンの日本」という展示を観てきた。これは昨春、京都で開催された同展を東京に移したものであり、フィルムセンター所蔵のチャップリン関連資料を加えて展示している。
「チャップリンの日本」展
 最盛期のチャップリンを秘書として支えた高野虎市という日本人が遺した写真や遺品を中心に、チャップリンと有名人(チャーチル、アインシュタイン)や日本人(山田五十鈴、山口淑子)との交流にスポットライトをあてたものである。

 会場で販売していた『「チャップリンの日本」展・図録』を買ったが、同展で展示されていた資料のほかにも多くの写真等が収録され、大野裕之さんの解説も的確であり、3,000円はお得な買い物だった。(非市販品。ただし、日本チャップリン協会のWEBから購入可能)
『「チャップリンの日本」展・図録』
 帰りに立ち寄った小料理屋で、なじみの60歳代のおばさんにこの本をみせたところ、懐かしがって食い入るようにながめていた。そういえば、このおばさん、元々は通訳の会社を営んでいた人で、ヨーロッパ暮らしも長く、イサム・ノグチなどかなり有名な人の通訳もやったことがあるすごい人なのだ。聞けば、彼女の父親は、若い頃、映画に生で音楽をつけるバイオリン弾きのアルバイトをしていたのだという。今生きていれば90歳として、その人が20歳代の頃はまだサイレント映画も併存していたことだろう。展示でみたチャップリン映画のポスターにも「徳川夢声 解説」といった弁士の名前が書かれていた。トーキーが誕生し、日本で最初の字幕映画は「モロッコ」(1931年日本公開)だという(太田直子著『字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ 』)が、その後もすべての映画が字幕付きになったわけではなく、わりと最近まで弁士、生オケが活躍していたことがわかって面白かった。
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まいじょ * 映画 * 07:01 * comments(4) * trackbacks(1)

「キッド」におけるチャップリンの自伝層

 昨日、(亀山郁夫「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」)で、ドストエフスキーの小説世界を、象徴層、自伝層、物語層という上中下の三層構造として捉えるアプローチを紹介した。

 この分析手法を、映画「キッド」にあてはめ、三層構造として捉えたらどうなるか。キッドの映画世界におけるチャップリンの自伝層がどのようなものかを探ってみたい。

三層構造

 「キッド」の物語層をまとめると次のようになる。母親が、やむをえず赤ちゃんを捨てる。その赤ちゃんをチャップリンが拾う。なさぬ仲の父子家庭で、チャップリンは苦労して5歳になるまでその子を育てあげる。その間、母親は歌手として成功し、子供たちのために慈善活動を行うまでになった。チャップリンの育てた子供が病気になったことから、施設に引き取られることに。チャップリンは一度は子供を取り戻す。だが、実の子の消息を知った母親は警察や報償金という力を借りて、子供を自分の元に引き取ることに成功する。わが子を奪われたチャップリン。だが、最後は警察に連れられて母親の家に招かれ、キッドと再会する...

 「キッド」の象徴層は、やはりキリスト教にかかわる神と悪魔、善と悪であり、それがこの映画の物語層を動かすテーマとなっている。直接対立することはないが、「育ての親」と「産みの親」の、子供に対する愛の葛藤のドラマでもある。福祉をめぐる「家庭」と「行政」の棲み分けといったことも、もしかしたら象徴層レベルのサブテーマの一つとなるかもしれない。

 では「キッド」におけるチャップリンの自伝層とは何か。

 第一に、チャップリンの第一子がこの映画の制作開始の直前に死んでいることに注目する必要がある。それが子供をテーマとする映画をつくる動因になったことは推測がつくし、この映画での子供への親密な愛情表現につながっていると考えられる。

 第二に、チャップリン自身の少年時代の体験にも目を向ける必要がある。チャップリンが1歳のときに両輪が離婚。極貧のなかで母親は精神病院に入院。まもなく父は酒の飲み過ぎで死去し、幼い兄弟は貧民館や孤児院を転々とする。こうした体験があればこそ、チャップリンは、キッドから迫真の演技を引き出すことができたのだと思う。

 第三に、チャップリン自身の芸の力のみによる成功にも着目しておきたい。男に捨てられ、生活力もないために、やむをえず子供を捨てた母親。だが、歌手としての実力によってのしあがった。映画における母親の成功物語は、チャップリン自身の立身出世物語と重ねて考えるべきである。

 ドストエフスキーの小説と異なって自伝層が映画の中で直接語られることは少ないけれども、こうしたチャップリンの自伝的要素がなければ、この映画にこれほど深い奥行きが出たかわからない。

 チャップリンは、母親の慈善活動を「善」として描くのに対し、権力による福祉行政を「悪」として描く。また、キッドの安住の地として、施設ではなく、家庭を選んだ。

 20世紀初頭、欧米の資本主義社会では、子供を育てることのできない母親は、子供を街に捨てざるをえなかった。だが、はるか昔、ルネッサンスの時代のフィレンツェにはオスペダアレ・デリ・インノチェンティ(捨て子養育院)があったのである。

「このオスペダアレ・デリ・インノチェンティを見たときに、ぼくは本当に驚いた。この建築がどうしてこんなに美しいのか、と、いろいろ考えてみると、それは、平等の愛すべき幼児のなかに私生児などという差別をする残酷な社会、社会の責任を幼児に負わせるような時代とたたかう新しい時代、新しい社会の美しさです。家庭の子供にはあのように美しい階段はいらないのです。家庭があるかぎり、建築芸術の必要はない。家族が解決することができない問題を、建築芸術が解決するのだ。不幸な母親が川に身を投げる代わりにあの階段を上がって行くように美しい階段でなければならない。川に身を投げるよりもこの階段を上がっていこうというのは、よほど美しい階段でないと、川のほうへ行ってしまうのです。」
(羽仁五郎「都市の論理」)


オスペダアレ・デリ・インノチェンティ

 上の写真は、オスペダアレ・デリ・インノチェンティ。羽仁五郎の言葉にのせられたのか、私はフィレンツェでこの建物をみて、感動のあまり立ちつくしてしまった。こうした施設があれば、母親はキッドをここに託したはずである。

 現代日本、徳島にできた赤ちゃんポストに対し賛否さまざまの意見があるようであるが、子供を捨てざるを得ない母親がいるかぎり、捨てられる子供を救うことを第一に考えるべきだと思う。
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まいじょ * 映画 * 09:23 * comments(2) * trackbacks(0)

キッド

 チャップリンが、捨て子の赤ちゃんを拾ってしまうところから、物語は始まる。赤ん坊を手放そうとあの手この手を尽くすが、どうしてもうまくいかない。途方に暮れて、路端の排水口をみつめるところで、まるで悪魔のささやきが聞こえるようだ。だが、次の瞬間、神の導きでもあったのか、赤ちゃんの母親の「この子をよろしく」という手紙を読んで、めざめたチャップリン。
キッド
 男手ひとつで子供を育てたチャップリンの苦労は、ほんのわずかしか語られない。しかし、その子に深い愛情が注がれたことは、成長した子供とチャップリンの貧しくても幸せな、ほのぼのとした生活ぶりを見ればよくわかる。
 だが、子供が病気になったことをきっかけに、互いに不可欠の二人の仲は引き裂かれてしまう。ここがこの映画のクライマックス、最も涙をさそうところである。

 キリスト教は、この映画に一貫して流れるテーマである。
十字架を背負うキリスト
 母親が赤ちゃんを置き去りにしたあと、十字架を背負ったキリスト像が一瞬だけ現れる。罪を負うた彼女は、成功を収めたのち、慈善活動に身をつくす。聖なる母となる。
 子供のけんかが発端でチャップリンが暴力沙汰に巻き込まれたとき、聖なる母がけんかの両者をいさめて言う言葉。
人もし 汝の右の頬を打たば 左の頬を出せ

 現実から突然移行した、まるで天国のような「夢の国」。天国の門の鍵をあずかるペテロが居眠りをしたために、悪魔がたやすく「夢の国」にはいりこむ。平和に暮らしていた人々をそそのかし、誘惑させ、うぶにさせ、嫉妬させたために、「夢の国」にいさかいが始まる。
夢の国
 初めて観たとき、この「夢の国」のシークエンスは、よけいではないかと思った。だが、ここを省いた場合を想像すると、どうにも収まりが悪いのである。

 そもそも、「キッド」に無駄なシーンなどあるはずもない。この映画で撮影に使われたフィルムは、実際に映画に使われた量のなんと53倍だという。撮影しながらプロットを変えていくことの多いチャップリンの作品の中でもひときわ高いNG率となっている。
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まいじょ * 映画 * 01:31 * comments(2) * trackbacks(5)

チャップリンの犬の生活

 「犬の生活」は、チャップリンが世界の喜劇王としてゆるぎない地位を得たファースト・ナショナル時代、自らの名前を冠した撮影所で作った最初の作品である。のちのユナイテッド・アーティスツ時代の代表作「街の灯」や「モダン・タイムス」の原型となるような笑いとペーソスを含んでおり、短編としての完成度はきわめて高い。

チャップリンの犬の生活

 驚いたのは、助演俳優ともいえる犬とそれを襲う群れ犬たちの乱闘シーンである。チャップリンは、のちに相棒となる犬を助けに入り、大勢の犬たちに追いかけられ、お尻にかみつかれたり、ひどい目にあうのだが、特撮もない時代によくあんな映像が撮れたものだ。どうやって、犬に演技指導したのだろうか。
 この映画には、日本人もかげで貢献している。1916年、この映画を作った頃、チャップリンに運転手として雇われ、のちに秘書となる高野虎市である。

『犬の生活』撮影中に、犬に対しても演技指導が厳しく、そのせいで犬が死んでしまったそうです。チャップリンは高野に同じ犬を探してこいと無理難題をふっかけました。やっと見つけて来た犬は、背格好は同じですが、目の周りの班がありません。そこで、高野は犬の顔にメイクをして班を描いたそうです。そのとき犬に何度も噛まれ、高野は「わしゃ、往生したぜ」と言っていたとのこと
大野裕之「チャップリン なぜ世界中が笑えるのか」


 チャップリンと愛犬が屋台の食べ物を盗み食いするシーンも傑作だ。チャップリンを疑う屋台の主人(シド・チャップリン)とそしらぬふりで盗み食いを続けるチャップリンの掛け合いは、互いに兄弟だからこそのものかもしれない。真似たくなるギャグなので、同じようなコントはテレビなどで何度も観たが、このオリジナルには到底かなうはずもない。
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まいじょ * 映画 * 23:57 * comments(1) * trackbacks(0)

昼下りの情事

 その年の映画の「最も素晴らしいタイトル」を表彰する「ゴールデンタイトル・アワード」の提唱者で映画大使の筑紫哲也さんが、過去の公開作品の中では、この「昼下りの情事」が名タイトルのグランプリではないかと言っている。(「筑紫哲也の緩急自在」07.07.04 アスパラ・クラブ

昼下りの情事

 原題は "Love in the Afternoon" だから、直訳すれば「午後の恋」だろうか、それを「昼下りの情事」としたところが絶妙なところだ。日活ロマンポルノに「団地妻 昼下りの情事」という名作(?)があるが、タイトルだけはこの映画のパクリである。

 私立探偵の娘オードリー・ヘプバーンは、中年プレイボーイのゲイリー・クーパーの素性を百も承知の上で出会ったのだが、いつもの手口でクーパーが供する豪華なルームサービスや「魅惑のワルツ」を奏でるバンドの音楽に魅せられ、あっという間に恋におちてしまう。数ヶ月後再会したヘプバーンは、生娘と悟られないために自分もプレイガールを演じるが、クーパーはそんなヘプバーンに魅せられ、本気の恋におちてしまうのだ。

 この映画のクーパーが適役かどうか評価が分かれるところだ。ワイルダー監督は、本当はケイリー・グラントにご執心で、この映画でもオファーしたが承諾がもらえなかったらしい。だが、監督は、実生活でも「無口」なクーパーが、女性の一言一句に耳を傾け、それが女性を魅了するところを目の当たりにして、クーパーがはまり役だったと感じたらしい。

 そういえば、村上春樹の小説に出てくる中年おばさんも女の子とうまくやる方法はみっつしかないと言っていた。
「ひとつ、相手の話を黙って聞いてやること。ふたつ、着ている服をほめること、三つ、できるだけおいしいものを食べさせること。」

 私が飲み屋で中年おばさんにもてるのは、本当につまらない話を黙って聞いているから、少なくとも聞いているふりをしているからだと思う。

 ラストシーン、駅でクーパーを見送るヘプバーン、動き出す汽車、せつない別れ。追いかける女、それを抱えあげる男。本当に名シーンだ。
 ワイルダーは、ウィリアム・ワイラー監督にこの映画についての意見を訊いた。「ウィリーはわたしの友達で、本音を聞かせてくれた。「最後のシーンで、オードリー・ヘップバーンはクーパーに話しかけるべきじゃないと思う。黙って列車といっしょに話しかけるべきだ」と言ったよ。そのとおりだな。でも、どうしようもなかったんだ。彼女の唇は動いていたし、パリにもどって撮り直すわけにもいかなかった。」




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まいじょ * 映画 * 00:50 * comments(2) * trackbacks(2)

華麗なるギャツビー

 村上春樹の新訳「グレート・ギャツビー」を読んだら、急にこの映画が観たくなりました。

華麗なるギャツビー

 多感な学生時代に公開されたこの映画を観て、私はものすごく影響を受けて、それからスコット・フィッツジェラルドの翻訳ものはすべて読んだと思うし、「The Great Gatsby」を少しだけ原書で読んだりもしました。当時、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」とこの「グレート・ギャツビー」の定訳といえる翻訳をした野崎孝は、私の通った大学の教授だったので、一般教養の英語の講義を何度か聴講したこともあります(面白くなかった)。

 昨日の記事でとりあげた小説の冒頭とその続きは、映画ではニックのナレーションで次のようになっています。

 In my younger and more vulnerable years, my father gave me some advice that I've been considering ever since.
 "When you feel like criticising anyone," he told me, "remember that all the people in this world haven't had your advantages."
 In consequence, I'm inclined to reserve all my judgements.

 まだ若く純真だったころ、生涯忘れえぬ助言を父から受けた。
“誰かを批判したくなったときは、自分の尺度ではなく相手の立場で考えろ。”
以来、私は私見を控えている。

 字幕としてはベストの翻訳といえるでしょう。

 フランシス・フォード・コッポラの脚本も本当によくできていて、原作の本質にかかる部分を残しながら、上手にまとめています。ネルソン・リドルの音楽も最高で、ギャツビーのテーマともいえる「What I'll be?」が流れると、何とも切なくなります。

 ギャツビー(ロバート・レッドフォード)は、一度は愛を誓ったデイジー(ミア・ファーロー)がなぜ自分の帰りを待てずにほかの男と結婚したのかを問いつめたときの答えです。

 Because, rich girls don't marry poor boys, Jay Gatsby. Haven't you heard? Rich girls don't marry poor boys!

「裕福な女は貧しい男とは結婚しない。知らなかった? 貧しい男とは結婚しないの」

 こういう嫌な女が相手でも、惚れた男って本当に馬鹿ですね。何年も努力して大金持ちとなり、デイジーの桟橋の緑の灯火を対岸にみる豪邸を手に入れたり...。でも、そういう見果てぬ夢を追うところに男のロマンを感じます。
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まいじょ * 映画 * 12:16 * comments(5) * trackbacks(3)

菊豆

 チャン・イーモウ監督が、「紅いコーリャン」に続いてコン・リーを主演に起用して、中国の封建的時代に生きた女性の悲劇を描いたドラマです。日中合作映画で、「紅いコーリャン」を評価した徳間書店社長の徳間康快氏が、製作費や機材などをすべて提供したそうです。

菊豆

 1920年代の中国、菊豆(コン・リー)は、旧家の染物屋に金で買われて嫁入りします。夫となるのは、何十歳も年上で、先妻もその前の妻もなぶり殺したという噂の男です。菊豆は、この夫に夜な夜なサディスティックに責められ、夫への憎悪から夫の甥と不倫して子供を産みます。夫が倒れると、ひそかに夫婦気取りの暮らしを楽しみますが、やがて成長したわが子に復讐されるという、まったく救いのない物語です。

 張藝謀は、自己表現できずに耐える1920年代の菊豆に、原題の中国人の姿を重ね合わせて描いた。「今日の中国がいまのようになってしまった根源がこの映画のなかでに描かれている」とインタビューに答えている。揚家の伝統的な規則にすべてを縛られていて、虐待されて息もできないなかで、菊豆は反抗する形で不倫を犯す。しかし、成長したわが子によってすべてを奪われてしまうのだ。“因果応報”を描きたかったという張藝謀だが、反抗し自己主張した結果、少しでも救いがあったら−−と思うのだが、アメリカ映画のように救いを描けないほど、中国の過去と現実は袋小路に入りこんでしまっているということなのか。
石子順『中国映画の明星 女優篇』


 恐ろしかったのは、3歳にもなって、言葉もしゃべらず、笑いもしなかった子供が、なさぬ仲の父親にまさしく殺されようとした瞬間に、「お父さん」と声を発したことです。それまで悪魔だった夫は、この一声によって、子供に対しては好々爺に変わりました。また、子供と遊んでいた「好々爺」が、事故で赤い染料の入った穴に落ち、溺れてもがく様子をみて、その子が初めて笑ったのです。

 そして、この子はいくつになっても、実父になじもうとしませんでした。不倫、あるいは背徳の関係を続ける二人を、鋭い目でにらむ姿は、まるで旧家の因習を守ろうとする意志が、のりうつったかのようです。

 コン・リーの演技で凄いと思ったのは、壁の穴から夫の甥に覗かれているのを知ったとき、まず羞恥心をあらわし、そして嫌悪感から必死で壁の穴をわらでふさぎ、そして数日後、今度は壁の穴から覗かれることを知りながら、半裸で身体を拭いたときの恍惚とした表情です。この間の心境の変化を、繊細な演技で表現しています。

 壁の穴を知る前の菊豆は、自分ひとりだけの孤独な存在でした。それが、壁の穴からのまなざしによって、他者によって見つめられる存在に変わりました。まさしくサルトルのいう「対自存在」が「対他存在」に変化したのです。

 映画の中では、彼女にまなざしを向けるのはもちろん夫の甥ですが、撮影時にコン・リーが感じていたのは、カメラを通したチャン・イーモウ監督のまなざしにまちがいありません。ゲスの勘ぐりでげすかね。
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まいじょ * 映画 * 17:58 * comments(1) * trackbacks(1)

さよならをもう一度

 イヴ・モンタンイングリッド・バーグマンは、ふたりとも離婚経験者で、つきあって5年になる中年カップルです。お互いに相手を束縛しないというルールで、住まいも別々、それぞれ自立した生活を営んでいます。同棲も結婚もしないのは、プレイボーイのモンタンにとっては都合のいい関係ですが、バーグマンには孤独と不安をかかえる毎日でした。

さよならをもう一度

 そんなバーグマンの前に現れたのが、金持ちのどら息子で若い弁護士のアンソニー・パーキンス。15歳も年上のバーグマンに一目惚れして、猛烈にアタックします。上の写真は、たまたま街でみかけたポスターをみて、「ブラームスは好きかな?」とコンサートに誘っているところです。

 そういえば、この映画、原作はフランソワーズ・サガンの「ブラームスはお好き」だそうです。映画の中で、アレンジを変えて何度も流れるのが、ブラームスの交響曲第3番の第3楽章。ロマンの極みともいえる名曲です。

 バーグマンは、新しい恋人パーキンスと古い恋人モンタンの二人にはさまれて、揺れ動きます。でもこの映画に出てくる男って、どうしようもないダメ男ばかりなんです。パーキンスは、自立心とか勤労意欲とか責任感とか欠如しています。モンタンも、若い女と寝ることしか楽しみはないようなスケベ親父で、自分勝手な男です。

 紆余曲折の末、バーグマンは、元のさやにおさまってモンタンと結婚することになり、同棲していたパーキンスに別れをつげます。

「君は彼のひと言に負けた。“お願いだ”。でも僕は精一杯やった。誇りに思うよ。僕がいたから君は彼と結婚を決意した。僕の役回りはキューピッドだ」

 部屋を出ていくパーキンスの背中に向かって、バーグマンは叫びます。

「I am old! I am old! I am old! I am old!」

 男二人が魅力を感じないだけに、よけいにバーグマンが引き立てられました。観ている人の99.9%が彼女の味方となったでしょう。冒頭のシーンと最後のシーンが、ほとんど同じであることが、彼女にとって一層つらいことであることを知っている観客にとっては、何とも悲しいラストシーンでした。 
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まいじょ * 映画 * 13:10 * comments(11) * trackbacks(3)
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